書に耽る猿たち

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『蠕動で渉れ、汚泥の川を』 西村賢太 / これぞ西村さんの私小説、人間らしさに溢れている

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『蠕動で渉れ、汚泥の川を』 西村賢太

角川文庫  2019.3.24 読了

 

動(ぜんどう)、あまり目にしない単語である。虫が付いているから虫の動きに関することだろうか。調べてみると、①ミミズなどの虫が身をくねらせてうごめきながら進むこと。②筋肉の収縮波が徐々に移行する型の運動 とある。本を読んでいて、「あまり目にしない単語や知らない単語が出てきた時に、調べてみるという行為」が昔から好きである。前後の文脈から大体は想像が出来るため読み飛ばしても差し支えないのだが、ふと気になって調べてしまう時があり、何故かこの瞬間をとても大事にしている。今は、ネットで簡単に調べられるが、子供の頃は辞書を捲って調べることが好きだった。本当は今もそうしたい。

み終えた時、タイトルのように、まさしくそんな感じでゆっくりと遠回りをしながらも、一生懸命あがいて生きている貫多を感じた。おなじみの貫多が主人公で、自堕落でどうしようもない17歳の姿が描かれている。家賃を滞納する、酒を飲む、盗みはする、すぐ人のせいにする。けれど、何故か憎めない。一生懸命生きている若者の姿を感じるのだ。しかし、もし自分が貫多と同世代の異性で同じ時を過ごしていたら、と想像すると、絶対に距離を置きたくなるタイプの男性だなとも思う。

うに、私小説家というのはある程度年齢を重ねてからのほうが良いものが書けるし、理解してくれる人も多いように感じる。17歳の西村さんが書くよりも48歳の西村さんが書いたほうが、より深みが出るのだ。でもそう思うのは、どこかに中高齢者層の読者への遠慮も見え隠れしているような気もする。若者が若者を書く私小説の場合には、独自の率直なみずみずしさ、リアリティが漂っており、年齢を重ねた人にとっては、ハッとどぎまぎさせられる。

 つの文章が終わる度に段落が変わり、何故かそれがずっと気になってしまった。西村さんは毎回こんな書き方だっただろうか。京極夏彦さんは、ページを跨ぐ文章を嫌っており、必ず調整するようにしているそうだ。京極さんの、長く理屈っぽいだらだらとした文章(これが癖になるのだが)にしてそのやり方を貫いてるのはなかなか凄いことだと思う。けれど、こういった法則に気づいてしまうと、本の内容に集中できなくなることがあるから、本当は気づきたくない。