新潮文庫 2019.7.8 読了
やはり、面白かった。この小説を読むのは2回目である。10年以上前に読んだ時にも興奮したことを覚えているが、再読してもやはり物語世界に貪るように入っていけて、読んでいる間はじっくりと堪能することが出来た。
日本の『嵐が丘』と作者が謳っているとおり、狂おしいまでの愛憎劇が繰り広げられる。まさに狂愛である。よう子ちゃんの、奔放でわがままな、それでいて人を惹きつける強さ。『風と共に去りぬ』のスカーレットでもなく、『嵐が丘』のキャサリンでもないのは、彼女の容姿が決して美しくないからだ。この違和感が女性読者の心を掴んでいるのだ。しかし、結局のところ、語り手である女中の冨美子の存在がさらに上をいっているのだ。女性って本当に恐ろしい。
いつの時代でもどんな国でもそうだが、報われない関係だからこそ、男女は燃え上がるのだろうか。これが、産まれ育った環境や地位が同じような関係だったらこうまで泥沼にならなかったろう。それにしても、「会った時から殺したかった」そんな風に思える太郎、そしてそれを「幸せだった」と言えるよう子の関係はある種羨ましいほどだ。人間がこんな気持ちになれること、ここまで狂うことが出来るのが感動的である。
最初に読んだ時には感じなかったのだが、冨美子が年下の子皆なに「ちゃん」づけにしていることが、どこかで勝ち誇ったような、小馬鹿にしているかのような気にさせている。一度読んで展開を知っているから、自分の中で冨美子の人物像が出来上がっていたからだろうか?この作品は、東太郎とよう子の物語ではなく、実は冨美子の生き様を描いた物語だ。読者は冨美子の回想を全て鵜呑みにしてはいけない、彼女の想いから編み出された真実ではない部分も多いのだ。
構成の図太さにも仰天する。しかし、読んだ後には全てが納得出来る。水村さんの小説はいくつか読んだが、やはりこれが最強だと思う。幼少期を海外で過ごしたのに、こんなに綺麗で響く日本語を綴ることが出来るのは、彼女が日本語を愛する所以であろう。
過去の作品で心に残る、記憶に残るものでも、詳細まで覚えているケースは少ない。この小説について比較的記憶が鮮明であったのは、面白かったというだけでなく、直後に読んだ中島京子さんの『小さいおうち』が同じ家政婦(女中のほうがより淫靡である)もので同じように家政婦目線だったから。そして、舞台である軽井沢はいかにもこんなメロドラマまがいなことが起こりそうな地だから。多分、死ぬまでにこの小説はもう1回は読むと思う。今は、『嵐が丘』を再読したくて仕方がない。
しばらく、というか20年以上軽井沢に足を踏み入れていない。避暑地として名高い軽井沢、なんだか行きたくなってきたなぁ。これから訪れる猛暑を逃れるために行くのではなく、人混みのない廃れた別荘地に足を踏み入れて、この小説の余韻に浸りたいという心境なのだ。