『太陽がいっぱい』パトリシア・ハイスミス 佐宗鈴夫/訳
河出文庫 2020.9.16読了
ずいぶん昔のことだが、マット・デイモンさん主演映画『リプリー』を観た。当時はそのストーリーと残虐性に取り憑かれ、なんて面白い映画だろうと思った記憶がある。そもそもマット・デイモンさんが出る映画って結構面白い作品が多いよなぁ。演技も上手いから幅広い役柄をこなせるハリウッドスターの1人だ。
この小説はその映画『リプリー』の原作である。リプリーとは、主人公トム・リプリーのことだが、原作のタイトル『太陽がいっぱい』はどういう意味があるのかな?と考えながら読み進める。
自分ではない、他の誰かになりきること。こんなことは可能なのだろうか?あの人みたいになりたい、自分が憧れる人になり変わりたいと、誰もが一度は思ったことはあるだろう。だけど、そんな風に思うのはほとんど子供の時のこと。大人になるにつれ、自我が目覚め自分の生き方を知らずのうちに考える。というよりもむしろ他人にはなれないと半ば諦める。
そうした意味でこのリプリーは子供の心を持った大人なのかもしれない。リプリーは、ディッキーに成り切る。嘘が嘘で塗り固められる。興味深いのは、ディッキーに成り切ったリプリーが元のリプリーの姿に戻るとき、「もっとリプリーらしくならなくちゃ」と本来の自分をも真似るようになっていること。ここまでくると、もうリプリーは誰も知らない新たな人物となる。
ストーリーは知っているのに、スリリングな展開と逃げ惑うリプリーの手に汗握る攻防に、読んでいる自分も息切れするようだ。文学的にどうというのは差し置いて、サスペンスとしては極上の作品だ。リプリー氏のなんと人間味のないことよ。それがこの小説の良さなのだが。リプリーシリーズはこの後4作続いている。リプリーがどうなっちゃうのか、すごく気になる。
なんと原題は『The Talented Mr. Ripley(才能あるリプリー氏)』だった。『太陽がいっぱい』というのは、1960年にフランスでアラン・ドロンさん主演で映画化された作品のタイトルで、それがそのままこの小説の邦題になったようだ。太陽と海とヨット、引き締まった若い肉体から連想され『太陽がいっぱい』だったのだ。私が観た『リプリー』はもっと陰鬱な雰囲気だったのだけれど。
いくら映画として面白い作品でも、たいてい原作には勝てないと思うのだが、これは小説も映画も同じくらい良いと思う。私が観たのは『リプリー』だけだが。古いほうの映画『太陽がいっぱい』も機会があれば観てみたい。