書に耽る猿たち

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『女の家』日影丈吉/女中のための家

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『女の家』日影丈吉

中公文庫 2020.11.3読了

 

影丈吉さんという小説家のことは、名前も作品も知らなかった。1991年に既に亡くなられた方であるが、泉鏡花文学賞を始めいくつかの文学賞を受賞したようだ。

座のとある家で折竹幸枝(おりたけゆきえ)がガス中毒死した。老刑事小柴と女中の1人乃婦(のぶ)が、交互に独白をするような構成である。これは純文学なのか、ミステリなのか。自殺か他殺かをめぐり小柴は推理し、乃婦は淡々と過去を語るが、これは純文学だと私は思う。

る社長の2号という立場である幸枝の家には、女中3人、子供1人、子供の家庭教師1人の6人が、社長の保護を受け暮らしていた。「どうしてこの人数で女中が3人も?」と意味不明だ。だって半分が女中なのだ。

人手を要するような人は誰もいないのに、なんとなく手のかかるのは、つまり私達がいるためで、いってみれば、この家の生活の大半は、私達に働かせるための儀式にすぎないもののようである。どうしてそんなものが必要なのかといえば、私達お手伝いさんこそ、この家に不可欠の要素だからである。(中略)おくさまは何もする気がないのではなくて、私達にさせるために何もしてはならないのである。(113頁 乃婦)

んと、女中のための家だという。女性とその子供が家主であり、2人をお世話するための女中ではあるが、この家では女中こそが存在不可欠であり、むしろ女中がいないと成り立たない構造を呈している。

前新入社員の研修を行った時に「社内にゴミが落ちていたら拾うかどうか」の議論をした。当然会社の中では「業務」と「職務」がある。ゴミを拾うという「職務」も当然遂行しなくては、会社組織は円滑にならない。しかし、「清掃員さんのためにゴミはそのままでもいいのでは」という意見が出て、なるほど、そういう考え方もあるなと納得したことを思い出した。女中にさせるために、仕事を残す。

静に語る乃婦に凄みがある。女中という存在から水村美苗さんの『本格小説』を思い出すが、なんとなく文体も似ている気がする。女中たちの存在が圧倒的すぎて、これはもう『女の家』ではなく『女たちの家』とすべきだろう。

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