書に耽る猿たち

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『流転の海』宮本輝|人間の宿命|なにがどうなろうと、たいしたことはありゃあせん

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『流転の海』第一部〜第九部 宮本輝 ★★

新潮文庫 2021.9.18読了

 

本輝さんの大河大作『流転の海』全9部作を読み終えた。単行本が都度刊行されている時から気になっていたが、あと少しと辛抱して文庫本が揃うまで待っていたのだ。今年の春、ようやく第九部『野の春』が刊行されたので一気読みした。

坂熊吾のなんという存在感か。下記では少しだけあらすじに触れているが、この大作をこれから読む方への妨げにはならないはずだ。

 

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『流転の海』第一部

終戦2年後の大阪の街。50歳になる松坂熊吾は事業を再建させようと奮起していた。その頃、なんと自分に子供が出来たのだ。50歳になって初めて出来た我が子に運命を感じ「20歳に育て上げるまでは生きよう」と誓い使命とする。

これから続く壮大な小説の幕開けに相応しく、この1巻だけでも十分に楽しめる。それにしても50歳という人生半ばをとうに過ぎた人物をここから長く続く主人公に据えたのが、このような大河作品にしては珍しいのではないか。

人間には不思議な星廻りがある。本人の努力だけでは抗えない宿命がある。熊吾の生き方もそうだが、妻の房江の人生もまたそうだ。

 

『地の星』流転の海 第二部

事業をたたみ、熊吾の故郷である愛媛の南宇和に帰った家族3人。身体の弱い妻子のために田舎の大自然の中で暮らす。地の星とは、生まれ故郷の夜空に浮かぶ星々のことだ。それにしても、宇和の方言は優しくて落ち着くなァし。

熊吾たち家族だけではない。この作品に登場する人物ひとりひとりの人物像が光っている。田舎にもその土地なりのいざこざや揉め事がある。悪人も熊吾と関わると、何故か良いところもあると思わせる。熊吾には、そんな魅力がある。

郷里で暮らすこの章からは熊吾の少年時代に起きたことなどが回想され、熊吾という人間の基本を作ったバックグラウンドがわかるようだ。

熊吾の話すこの言葉が印象に残った。「子供っちゅうのは、この世のなかで一番気にかかる他者じゃということになる」「人間として根本のところで心根がきれいじゃと、神さまが助けてくださる」

 

『血脈の火』流転の海 第三部

郷里から大阪に戻ってきた熊吾は、雀荘、中華料理店を始めとした多くの事業を手がけていく。50代後半になった熊吾ではあるが、なんと尽きない精力であることか。息子である伸仁は小学生に上がる頃で、この辺りから存在感を帯びてくる。

郷里から呼び寄せた熊吾の母親の失踪、台風による大被害、熊吾に忍び寄る病魔など、この一冊だけであらゆる苦難がおそいかかるが、熊吾の洞察力と機智で乗り越えていく。この巻は、なんだか生き急いでいる印象を受けた。

人の家の電話を借りる場面で、「市内だから安い」という会話を読んで、あぁそうだった。昔は市内など同じ区域であれば通話料が安かったんだよな〜としみじみ思いだしてしまった。

 

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『天の夜曲』流転の海 第四部

中華料理店が食中毒事件を起こし、杉野が脳溢血で倒れ、房江が更年期症状を訴える。熊吾ら家族は、富山に居を移すことになる。富山といえば、私も一度旅行で訪れたことがあるが、広大な自然と、何よりも新鮮な魚貝類の美味しさに舌鼓を打った。海鮮居酒屋で食べた時価のかんぱちは今まで食べたなかで最高の美味しさだったことが忘れられない。

私にとって良い思い出の富山だが、房江にとってはこの地はそうでもなかった。家族3人で富山に移ってすぐに熊吾だけが大阪に戻り、房江と伸仁だけの不安な暮らしをする一方、大阪で踊り子の女性と再開した熊吾は、運命に翻弄されていく。

悪い人相になる原因は「嫉妬」であると熊吾は言う。妬む気持ちは誰にでもあるが、それをどう抑えられるかが人相を変えてしまうのだという。確かに世の中の犯罪はほとんどが何らかの憎悪に絡むものだ。

 

『花の回廊』流転の海 第五部

ちょうどこの第五部が新刊として単行本で書店に並んでいるのを見て読みたいと思ったのを覚えている。当時の年齢で、遡って一部から読んでいたら、また今とは違った感想を抱いてたはずだ。それに、リアルタイムで新刊を待ち侘びるという幸せも味わえたのに。まぁ、本を読むタイミングも縁ものだから仕方ない。

熊吾夫婦とは離れて、尼崎にある貧民窟のような集合住宅「蘭月ビル」で叔母と過ごす伸仁。両親は不穏なこの建物と住人と関わり合いになることを心配するが、実は伸仁にとっては「花の回廊」になる。親と子では世界の見え方、接し方が違う。見える景色も想いも違うのだ。ノブ(伸仁)はここに住む1年間で、多くのものを吸収して大人になる。

熊吾は駐車場運営のために奔走し、房江は小料理屋で勤めをする。やがて富をなし家族で過ごせるようにと両親は各々が力を振り絞る。この巻では、仲睦まじい家族という印象はなく、それぞれが独立しているようだ。昭和の高度成長期がよくわかるような歴史背景も興味深い。

 

『慈雨の音』流転の海 第六部

大規模な駐車場経営をすることになり、管理人として住み込みで働く熊吾ら家族。ノブは中学生になり、より一層存在感を増す。

この巻では人との別れがいくつもあり、それが人間の生死というものについて考えさせられる。まさに慈しみ、慈愛に満ちたストーリーだ。

金魚、犬、鳩など伸仁が大事に育て上げる生き物との繋がりや接し方をみていると、子供の時に生き物を飼うという経験は大事だと思った。世話をするという営みが必ずや人への接し方を変える。

独学でペン習字を学ぶ房江をみていると、今でこそ当たり前のように読み書きができるのは義務教育があるからで、それを受けられない世代も存在したのだと改めて思う。男の子にも思春期に胸が膨らむことがあるというのも初めて知った。

 

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『満月の道』流転の海 第七部

駐車場経営とともに中古車販売にも精を出していた熊吾だが、いつしか暗雲が立ち込める。また、踊り子に再開したことで厄介なことに巻き込まれる。ノブは高校生になる。

ノブの高校の担任から「あの子には好きなことをさせておけばいい」と言われた房江は安心する。熊吾は、試験に役立ちそうもない「雑学」にたくさん触れるほうがいいと言う。「雑学を身につけずに学校の勉強ばかりしていい大学を卒業した人間は、世の中に出て、いざというときに役に立たない」まさに、その通りだ。

熊吾とノブが取っ組み合いをし、ついにノブには敵わないと悟った場面で、この親子は遂に対等になったのだと感じた。

何がそう思わせるのかわからないが、2〜3巻ほど前から、山崎豊子さんの作品を読んでいるような感覚になっている。大阪での商い、経済小説のような雰囲気からなのか。

 

『長流の畔』 流転の海 第八部

房江のことを思うと、同じ女性として辛くなる。だけど、房江がこんな風になるなんて思わなかった。芯が強くどこか余裕のある風格が脆くも崩れていく様をみて、気の毒で同情しているのに、どこかで房江ならもっとカッコよくどっしりと構えるはずなのにと。でも、これが女性たるものだ。

嫉妬深くなりふり構わず泣き喚き、熊吾を罵る。助けを求めてまだ高校生のノブに想いをぶつける。よく考えると、まだ17.8歳の子に大人の問題を押しかけるのは分不相応だろう。

「驚き」の後に「嫉妬」がきて、そのあとは「悲しみ」がくる。そして最後には「あきらめ」が来ると房江は気付く。あることを成すために城崎に行って、そのあとどうなったか。寝る前に読んでいて涙が流れた。この巻は間違いなく房江が主役である。あんなにカッコよかった熊吾がただのだらしないおっさんにみえてしまったのだ。

 

『野の春』流転の海 第九部

ついに、最終巻。熊吾の体調がどんどん悪くなり、老いが無惨にも襲いかかる。もうそろそろなのかと、このドラマも幕を閉じるのかとロス気分になる。しかし、それが人生たるもの、そして物語もいつかは終わるもの。

ノブの20歳のお誕生日会に、房江から熊吾に「ノブの20歳になるまでは死なない」という使命を果たしたお祝いとして、帽子をプレゼントする。この夫婦が号泣するこのシーンは名場面だ。語らずとも、2人の涙だけで充分だ。

最終話に相応しく、今までのエピソードが走馬灯のように駆け巡る。過去に登場した重要な人物が再度登場する。信じていた人なのに、最後の最後に裏切られることもまた宿命である。

熊吾がノブに大事な話をした場面以降は、涙が止まらなくなった。本当に心に沁み渡る良い小説だ。最後は心根の良い人間たちが熊吾のもとに集まりお別れをする。

 

 

この長い大河小説を読み終えて

い作品だったが、どっぷり浸かって堪能でき、充実した読書時間になった。途中、この本を読んでいる自分が夢にまで出てきたほど。力強く太く圧巻の作品である。

が生きていれば、色々なことが起きる。楽しいと思うことよりも、苦しく辛いことのほうが多いかもしれない。しかし1人の人間が経験できることはたかがしれている。私はこの小説を読み、自分の経験できないことをたくさん教わり、まるで一緒に生きてきたかのように感じたのだ。小説にはそんな力があることを久々に思い出した。

 

「なにがどうなろうと、たいしたことはありゃあせん」(熊吾語録のひとつ)

これを唱えていたら、きっと人生楽に歩んでいける気がする。

 

かにこれだけの長編は挑むのに躊躇するかもしれないが、一生に一度は読む価値がある。熊吾が発する言葉には名文、教示がたくさんあるのだ。私も死ぬまでに一度は再読するだろう。第一巻『流転の海』と最終巻『野の春』が圧巻だ。どの巻ももちろん素晴らしいのだが、個人的には南宇和を描いた第二巻『地の星』が心に残っている。また、中核をなす第五巻『花の回廊』も深く根を張るかのようだ。

イフワークとして長きに渡り書き続けてきたこの作品の存在は、宮本さんの作家冥利に尽きるだろう。あとがきで述べているように、書き終えたことに使命を果たせたと感じている。37年という長い歳月をかけていると、文体にも変化が出てくる。明らかに徐々に会話文が多くなり、万人に読みやすくなっている。  

本さんの執筆に合わせて37年かけてともに読んだ人は幸せだ。1巻出たら次の巻が出るまでに3回くらい読む。次の巻が出たらまたそれを繰り返す。これが贅沢な読み方だ。そして最後の9巻を読み終えた後、また初めから読み通した読者に私は羨望を抱く。

長編ということで五木寛之さんの『青春の門』や加賀乙彦さんの『永遠の都』を彷彿とさせる。松坂家族にともに昭和の時代とともに寄り添い生きる姿が力強く、また多くの登場人物の誰かには共感できる。読みやすさとおもしろさで分配が上がるだろう。さて、この勢いでプルースト著『失われた時を求めて』も挑戦できそうな気がしてきた。

 

こんなにブログの日数が空くのも初めてなので、いつの間にか本猿はいなくなったと思われたかもしれないが、ひっそりと長編小説に耽っていたのである。