書に耽る猿たち

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『人間のしがらみ』サマセット・モーム|幸せは苦しみと同様に意味がないもの

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『人間のしがらみ』上下 サマセット・モーム 河合祥一郎/訳 ★★

光文社[光文社古典新訳文庫] 2022.11.18読了

 

さか年に2回も同じ小説を読むとは!どれだけこの作品が好きなんだろう。『人間の絆』という邦題で広く知られる名作であるが、今回訳者の河合祥一郎さんは、「絆」ではなく「しがらみ」とした。確かにミルドレッドとの関係性はもはや絆というよりもしがらみといえるかもしれない。「絆」も「しがらみ」も表裏一体であるからこの訳も頷ける。しかしタイトルから受ける印象はガラリと変わるから、なかなか思い切ったことをしたな~と思う。

 

品の中でフィリップの精神を不安定にし、感情を大きく揺さぶられるのは大人になってから(特にミルドレッドとの関係)であるが、寄宿学校時代の描写には痛ましくなる。全体からみるとわずかな頁数であるのに忘れ難い。子供の頃に受けたものは(特に悪いことは)生涯忘れられず一生付きまとうトラウマになる。「学校でつらい思いをしたために自己分析の癖がついた」と語るフィリップは、その後の人生で洞察力を培い生きる真理を見つけるのだ。

タイの福音書による一節「信じて祈るならば求めるものは何でも得られる」を読んだフィリップは、内反足が治るようにと、来る日も来る日も全霊で祈り続けた。それでも叶わない。それは「信仰が十分である人はいない」という一般的な法則を生み出した。聖書の文は、一つのことを言いながら別のことを意味しているものだったのだ。子供の時は、初詣でも流れ星でも、本気で願いを叶えられると私も信じていたよなぁ…。

庭教師であるミス・ウィルキンソンとのひと夏の体験、これが初恋と呼ぶのなら、甘い思い出にもならない。ウィルキンソンを魅力に感じるときもあれば、グロテスクな厚化粧だと思ったり。しかし、おそらく誰しもが通り過ぎる、初めてのキス、初めての色々な経験、これを早く済ませたいという焦燥感から彼女を選んだだけ。それでもフィリップは、男女の遊びに今まで感じたことのない喜びを見出す。

じ作品を何度も読むと、余裕が生まれるのか、1度め、2度めには気づかなかった(というか心に深く残らなかった)ところにもじっくり目を凝らせるようになる。育てのルイーザ伯母の深い愛、フランスの絵画教室で出会ったファニー・プライスの最期、美学生に多大な影響を与える酒好きのクロンショー、スペインに情熱を抱くソープ・アセルニーとその家族の寛大さ。 

人ヘイウォードが亡くなったと知った時のフィリップは人生の意味を問い続け、人生には意味などない、重要なものは何もないと気付く。

幸せという物差しで測っていたら自分の人生は惨憺たるものに思えたが、ほかの物差しで測ってもいいと気づくと、力が取り戻せるのだ。幸せなど、苦しみと同様、あまり意味がない。どちらも、ほかのさまざまな要素と同様、人生という模様を凝ったものにするだけだ。フィリップは一瞬、人生という出来事から超然と離れて立っている気がし、これまでのように、もはや人生に振り回されることはないと感じた。何が起ころうと、これから人生模様をさらに複雑にするモチーフとなるだけのことであり、終わりが近づけば、その完成を喜べばいい。それは芸術作品となり、自分だけがその存在を知り、自分の死をもって直ちに消え去るがゆえに、美しいのだ。(449頁)

この真理に気付いたあと、「フィリップは幸福だった」と締めくくられているのが何ともいえず尊い。幸せとは、目に見えない自分の心のなかのものなのだ。

 

の作品を読むのは3回めである。もちろん全て違う訳者さんだから、受ける印象は異なる。しかし、元の作品が素晴らしい故にどの訳も作品の良さを損なうことは全くない。この作品がこんなにも私たちを惹きつけるのは、主人公フィリップの人間らしさだろう。決して良いところばかりではない、むしろ、欠点のほうが目立つ。嫌なやつ、人の気持ちを踏みにじる、そして裏切られ、騙され、それでも屈しない強さがある。人間関係で感情をコントロールできず運命に翻弄されてしまう弱さもある。  

本語の「絆」という言葉は現代では肯定的な意味合いが強いが、本来は「断ち切りたいのに断つことのできない結びつき」という否定的な意味があったようだ。だから、かつて邦題を「絆」としたのも納得である。しかし時代が変わると言葉の意味も変化する。河合さんが「しがらみ」としたのも、時代に即した言葉を用い、この名作を長く世に残したいという想いが込められているのだろう。

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