書に耽る猿たち

読んだ本の感想、本の紹介、本にまつわる話

『沙林 偽りの王国』帚木蓬生|科学者集団「オウム真理教」が目指したものとは

f:id:honzaru:20231002071547j:image

「沙林 偽りの王国』上下 帚木蓬生

新潮社[新潮文庫] 2023.10.5読了

 

が立つ人、屁理屈を捏ねる人のことを「あぁ言えば、上祐」という言葉で揶揄するのが当時流行っていた。オウム真理教元教団幹部・上祐史浩(じょうゆうふみひろ)のあの嘘八百に、饒舌なトークと堪能な英語力に、日本中が翻弄された。上祐史浩はテレビ番組に引っ張りだこでタレント然としていた記憶がある。

 

分が今まで生きてきた中で、最も印象深く忘れられない事件の一つがオウム真理教による地下鉄サリン事件である。当時はまだ中高生だったが強烈だった。オウム真理教による一連の事件、宗教観、そして教祖松本智津夫については、多くの関連文章が出されている。

 

の小説は、医者である帚木蓬生さんだからこそ書けた作品だ。オウム真理教事件の医学的な解明と治療対策を主導した実在の人物井上尚秀さん(九州大学医学部教授)の視点で教団による一連の事件を暴く。ノンフィクション、ルポタージュのように勢いのある筆致は、特にサリン形成の過程、サリン散布に伴う多大な影響の記述が凄まじい。化学兵器の恐ろしさに慄く。

オウム真理教は“科学技術省”なのだ。ここにこそ、オウム真理教の独自性がある。オウム真理教は科学者の集団であって、他の宗教団体がこれまで成し遂げられなかったことを完遂するーー。(上巻226頁)

 

下鉄日比谷線と千代田線の被害届、犠牲者の診療録を読んでいると、その時の状況が容易に想像でき恐ろしくなる。仮にも都心部を通勤に利用している身としては、いつ誰に起きてもおかしくないことだ。この頃はまだインターネットが普及しておらず、新聞記事が情報の最前線だったのが時の流れを感じる。

 

団のトップの優秀な人物らもさることながら、やはり元教祖麻原彰晃松本智津夫)死刑囚とは、なんという人物像であろうか。子供の頃から傍若無人に振る舞い、しかしカリスマ性は突出している。裁判の場でも揺るぎない信念を貫き、自分流の呪文であるブツブツを、その生命が奪われる最後まで唱えた。そして、そんな麻原を最後まで崇めた人物も存在したのだ。

 

教が持つ洗脳力の恐ろしさ。これは宗教に限らない。誰しもがいとも簡単に洗脳される。洗脳という大きな罠に、高学歴のエリートたちがハマってしまうとこんなにも恐ろしいことが起きてしまう。

 

件の全貌が、程よい範囲で読みやすく書かれている。私自身、オウム真理教事件といえば「地下鉄サリン事件」「松本サリン事件」「坂本弁護士一家殺人事件」しか思い浮かべられないが、こんなにも多数の事件があり、ひとつひとつの事件がこれほど巧妙に仕組まれていたとは。

 

れを「おもしろい」読み物だと一言で言うと語弊があるかもしれない。あんなに強烈な事件を忘れるはずがない。ただ、それはオウム真理教の異様な宗教観、麻原彰晃の漫画みたいなキャラクターによるものが大きい。さらにマスコミによる洗脳があったからだ。本当に忘れてはならないことは、この小説に書かれている。あの事件を風化させないためにも読むべきだし、事件を知らない若者たちにも読んで欲しい。