書に耽る猿たち

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『日本蒙昧前史』磯﨑憲一郎|あの時代に確かにあった、あんなこと、こんなこと

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『日本蒙昧(もうまい)前史』磯﨑憲一郎

文藝春秋[文春文庫] 2024.01.02読了

 

イトルにある「蒙昧」とは「暗いこと。転じて、知識が不十分で道理にくらいこと。また、そのさま。(goo辞書より)」という意味である。ということはつまりこの作品は、日本の曖昧なぼんやりとした前史(ここでは昭和の時代)ということであろうか。

 

本の歴史になぞらえて小説に落とし込む語り口は、奥泉光さんの『東京自叙伝』を彷彿とさせる。あの時こうだったな、この時代にはそんなこともあったな、あんなに深い意味があったのか、と懐かしみながら、また知らないことは新たな発見をし楽しく読み進められた。私たちが目にする切り取られた出来事や事件には、当たり前だけれど隠れた側面がある。それを知ることで全く異なる形相を私たちに見せる。

 

れにしても、この話をしていたはずなのに、いつの間にやら違う話に移り変わっていて、その境が曖昧で気付かないほどだ。磯﨑さんのこの技量には恐れ入った。

 

つ子を宿す夫婦の話、これは結構長かったが興味深く読めた。大家族ドキュメンタリー番組の先駆けはこの家族から来たらしい。私が産まれる前の話だからこのニュース自体は知らなくて当たり前だが、当時の日本全国のどよめき、マスゴミの態度は想像できる。また、大阪万博のシンボル「太陽の塔」立て籠もり事件の目玉男の話がおもしろかった。観客たちの前で、最後に是非会見をさせて欲しかった。崩れ落ちる目玉男があまりにも無惨だ。

 

後を飾るのは元日本兵の話である。グアム島のジャングルで、戦争に負けたことも知らずに28年も洞窟の中に身を潜めて暮らしていた彼は、ひょんなことから発見され一躍有名人となる。結婚もして晩年はのんびりと暮らしていたが「野生の豚やカエルをも食べ、1人ぼっちで生きてきた歳月は、人生の中で最も果報に恵まれた日々だったのかもしれない」と回想する晩年のシーンには、人間の営みの本質を考えさせられる。

 

﨑憲一郎さんの作品を読むのは初めてだったのだが、さすがの芥川賞作家、文章が上質だった。改行のほとんどない埋め尽くされた頁の文字が真に尊く見えるのは、彼の洗練された文体のせいであろう。