『雲』エリック・マコーマック 柴田元幸/訳 ★★
東京創元社 2020.3.8読了
ひときわ目を惹く素敵な装幀である。いつも本には書店の紙のカバーをかけてもらい持ち歩いているのだけれど、素敵な表紙がカバーの中に包まれていると思うだけでもなんだかウキウキする。この表紙だけでも目を奪うのに、「自分は何でこの人の書くものがこんなに好きなんだろう」という帯にある柴田元幸さんの言葉。これを見たら読まずにいられない。
素晴らしく良い小説だった。私にとって大切にしている読み心地の良さがあり、漂う空気が、読んでいる時間が愛おしくなる、至福のひと時を存分に味わえた。
仕事で訪れたメキシコのラベルダという街。突然の豪雨を避けるために、雨宿りとして入った古書店で見つけた「黒曜石雲」という本。なんとそこには主人公ハリーにとって、忘れられないスコットランドのダンケアンという街の名前があったのだ。この出来事がハリーの宿命であるかのように、彼の人生の謎を解き明かすことになる。
古書の謎を解くために、学芸員に調査を依頼する。ハリーは語り手として自分の過去を読者に語り始める。回想と現実が同時に進んでいくが、いつしか重なり合う。とても自然に。絶妙な混ざり具合に、私も唸った。
この作品には魅力的な人物がたくさん登場するのだが、なかでもひときわ興味深いのは医師のデュポンだろう。彼の経歴や過去の恋愛もさることながら、面白いのは、ハリーに何かを勧める時の最後のセリフだ。「ずいぶん学べるはずだよ」「味は実にいいらしいぜ」「面白いかもしれんぜ」など、上手く相手を乗せるのである。何度かハリーは騙される感じになるのだが(笑)。とにかく、ユーモアがある。
どうしても解けない謎には、何かとても心に訴えるものがあると思うんだ。僕たち人間の心みたいに。(316頁)
息子のフランクがハリーに話した言葉だ。お互い本当にわかりあえないのも、実はそんなに悪いことじゃないかもしれないよ、と言われているかのようにハリーは感じる。恋人、兄弟、親子ですら分かり合えないことはままあるだろう。自分のことは人になかなか伝わらないし、また他人のことも完全に理解できない。
人間にとっては自分の心だって神秘なのだ。(444頁)
このハリーの言葉が全てだと思う。プロローグを読んで作品にのめり込むと思うが、エピローグも秀逸である。
この小説は、人間の心理をさぐり、謎を解くミステリ要素もあり、哲学的なこともほのめかしていたり、読む人によっては非常にツボにはまる作品だ。単行本で値段もそこそこするが、是非読んで欲しい。もちろん、柴田さんの訳が素晴らしいことも楽しめた要因の一つだろう。
一度も買ったことはないが少し気になっていた(なんせ、猿という雑誌名だから!)スイッチ・パブリッシングから刊行されている「MONKEY」という文芸雑誌があるが、これは柴田さんが編集責任者らしい。
翻訳家・エッセイストである柴田さんが、小説を通して、今私たちが住む世界の魅力を伝えるための文芸誌とのこと。年に3刊というペースもちょうどいい。定期購読してみるのもいいかも。