書に耽る猿たち

読んだ本の感想、本の紹介、本にまつわる話

『HHhHープラハ、1942年』ローラン・ビネ|ビネ自身が主人公で、実況中継するかのよう

f:id:honzaru:20230614071044j:image

『HHhHープラハ、1942年』ローラン・ビネ 高橋啓/訳

東京創元社[創元文芸文庫] 2023.6.17読了

 

屋大賞翻訳小説部門を受賞したというのが納得できるおもしろさだった。パラパラと頁をめくると、細かい文字がびっしりと埋められ(東京創元社の文庫だし当たり前なのだが)、史実を元にした内容だからなかなか込み入ってそうに思えた。しかしまぁ、思いのほか読みやすかったのだ。語り口に引き込まれてぐいぐいと読ませるこの手法が、もう天才的で、類稀なる読書体験となった。

 

942年のプラハで実際に起こった、ナチスの高官ハイドリヒの暗殺事件について書かれたノンフィクションにもとれるようなフィクションである。ハイドリヒは、ユダヤ人大量虐殺の発案者にして責任者で、「死刑執行人」「金髪の野獣」「第三帝国でもっとも危険な男」と呼ばれた人物である。

 

チスと聞くだけでユダヤ人大量虐殺、ホロスコートアウシュヴィッツなどが思い浮かび、恐怖感が込み上げる。ナチスといえばヒトラー、しかし教科書ではそんなに深くは学ばないとは思う。実はこのハイドリヒという人物が陰の主謀者であった。私はハイドリヒのこともこの殺害事件のことも無知であった。それでも十分にこの世界にのめり込むことができた。

 

イドリヒ殺害の実行犯はチェコ人のヤン・クビシュとスロバキア人のヨゼフ・ガブチーク。2人の青年は当時ロンドンにあったチェコスロバキアの亡命政府によって、パラシュート部隊員としてプラハに送り込まれたのだ。小説の半分以上はハイドリヒのことで占められる。ハイドリヒという怪物が、小説のなかの人物としてみると魅力的で仕方ない。

 

ビ・ヤール(おばあさんの谷)は人類史上もっとも巨大な死体置き場であるそうだ。死者を大量生産するためのみごとな管理システムだと著者が述べている。どれだけ時間をかけずに人間を殺し、その死体をどれだけ積み上げられるかなんて、考えるだけで同じ人間がやったとは思いたくない。この小説で書かれていることは実際に起きたことなのか…。

 

の小説に唸らされるのは、詳細な史実や生き生きとした登場人物たちよりも、筆者であるローラン・ビネが、勢いある鋭い筆致で描く小説手法である。こんな風に小説はできあがるのか。ありのままの作者の行動と想いが手に取るようにわかる。普通なら巻末にまとめられる参考文献の数々が途中途中に登場し、史実を書き上げるその過程が綿々と露わになる様が、まぁおもしろいのなんの。まるで、歴史上の人物がそこにいるかのように浮かび上がる。いや、まさにビネ自身がタイムスリップして、彼らの横で実況中継しているかのようだ。もはや主人公はビネ自身だ。

 

いったい何を根拠に、ある人物が、ある物語の主役であると判断するのだろうか?その人物に費やされたページ数によって?そんな簡単なことではないと僕は思いたい。今僕が書いている本について話をするとき、「ハイドリヒについての僕の本」と僕は言う。(139頁)

 

もそも、タイトルの『H HhH』ってどう読むのか?そしてどんな意味なのか?解説にあるように「エイチ エイチ エイチ エイチ」でもいいし、他の言語での読み方(ドイツ語なら「ハー」)でもOKらしい。そもそもタイトル自体が記号かイラストのようで、この本は視覚で捉えている。

 

『H HhH』は、Himmlers Hirn heißt Heydrich(ドイツ語で「ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる」)の略で、親衛隊や秘密警察ゲシュタポを統率したヒムラーの部下のなかでもハイドリヒがきわだって優秀であったことを示すフレーズだそう。結局読み方や意味がわかっても、「Hの文字がデザインになってる本」とか「ビネのあのナチスの本」とかって呼んでしまうだろうな。