書に耽る猿たち

読んだ本の感想、本の紹介、本にまつわる話

『指差す標識の事例』イーアン・ペアーズ|私たちが生きていく上で物事・人物の見え方は異なるもの

f:id:honzaru:20230207071624j:image

『指差す標識の事例』上下 イーアン・ペアーズ 池央耿・東江一紀宮脇孝雄日暮雅通/訳

東京創元社創元推理文庫] 2023.2.11読了

 

れ、実はずっと気になっていた小説。タイトルが秀逸で内容もおもしろそうなのだが、何より目を見張るのが訳者が4人もいること。この小説は4章にわかれていて、それぞれ別の人物の手記となり、章ごとに4人の訳者が訳しているのだ。邦訳を完成させるのになんと22年もの歳月を費やしたらしい。本国イギリスでこの小説が刊行されたのは1997年だそうで、結構前の作品なのに驚いた。

 

の時代背景と設定がたまらない。17世紀のイングランドクロムウェルが統治していた時代。クロムウェルといえば王を断首し独裁的な統治をした人物。この動きがある時代に、神学校、占星術、暗号解読など、興味津々な言葉が飛び交う。

 

初の章は「優先権の問題」で、宮脇孝雄さんが訳している。ヴェネツィア人で医学を学ぶマルコ・ダ・コーラの視点で語られる。学問だけでなく、友人にも恵まれて有意義な生活を謳歌していたが、オックスフォード大学の教師が毒物を飲まされ殺される事件が起きた。コーラも懇意にしていた教師だったのに。

格推理ものかと思っていたら、喜劇めいた口調で語られるのに驚く。イングランドを馬鹿にしているというか侮辱しているというか…。人間を実験台のようにしたり絞首刑を楽しんだりと、一章めからとんでもない小説になりそうな予感。友人になった医師のローワーとの関係が違和感ありあり過ぎる。

 

東江一紀さん訳「大いなる信頼」で、父親の汚名を晴らすために奮闘する男が語り手となる。コーラの語りと比べると大いに真面目であり読者をいたぶる気配が感じられない。同じく毒殺事件の犯人をめぐる考察が視点を変えて語られるが、それよりも父親を巻き込んだ陰謀の謎にも惹きつけられる。    

 

3めの章は日暮雅通さん訳「従順なる輩」で、オックスフォード大学の幾何学教授が語り手となる。自身を「小生は」と語り、より丁寧な言葉遣いで語られるそれは、否が応でも質実剛健さがあり信用したくはなるが、あまりにもコーラへの疑いが過ぎて…もはや、誰の手記を信じればいいのかー。

 

して最後がこの本のタイトルでもある「指差す標識の事例」、訳者は池央耿さん。最後の語り手が、今までの3つの手記を読んだうえで事実と自身の考察を述べていく。毒殺事件の犯人は、そして今までの違和感はどう決着をつけるのかー。著名な訳者さんばかりでさすがの淀みない訳文だが、池さんの文章がいちばんすっと入ってきた。最終章を飾るから、読み応えもあるし。

 

り手が異なり、はたまた訳者も変わるとなれば、読み手の受け取り方ももちろん違う。それぞれが語る事件の真相、ある人物への想いや感じ方は、私たちが生きていくうえで物事や人に対する見方が異なるのと同じだ。見えているもの、感じているものは全く違う。同じ料理でも、同じ景色でも、同じ人を見ても。そしてもちろん同じ本を読んでも。

 

ステリ要素を含んだ歴史小説と言えるだろう。何故なら、実在の歴史上の人物が何人も描かれ、その動きのある時代背景とともに政治的思惑が繰り広げられているのだ。毒物事件の真相究明よりも歴史小説としての楽しみが増す。こういうタイプの小説は読んだことがなかったので、なかなか楽しい読書時間だった。少し長くて疲れたけど。4人の訳者の作品群をまとめあげた編集者も並々ならぬ苦労があっただろう。

 

庫本の帯にはウンベルト・エーコ著『薔薇の名前』があるが、なんとなくドナ・タート著『黙約』も連想した。これ、どちらもめちゃくちゃおもしろいから、読み直したくなってきた。

honzaru.hatenablog.com