書に耽る猿たち

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『野生の棕櫚』ウィリアム・フォークナー|交わらないのにお互いを高め合う二つの作品

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『野生の棕櫚(やせいのしゅろ)』ウィリアム・フォークナー 加島祥造/訳

中央公論新社[中公文庫] 2023.12.12読了

 

ォークナーの小説を読むときは心を静謐に保ち、雑音を排除する必要がある。そうしないと頭に入ってこないのだ。タイトルにある漢字の「棕櫚」は見慣れないが、カタカナで「シュロ」と書かれているのはまれに目にする。そう、椰子の木のことである。

 

つの異なる長編小説が交互に書かれている。今であれば当たり前のように小説の構成としてあるものだが、これが刊行された時には斬新なスタイルだったのか、文学界に激震が走ったようだ。

 

イトルでもある「野生の棕櫚」と「オールド・メン」という二つの作品は、場面も登場人物もストーリーも全く異なる。どうしてこれを重ね合わせて一つの小説にしたのか、読み始めは全く意味がわからなかった。

 

「野生の棕櫚」では、医学生ウィルボーンと人妻シャーロットの愛と苦しみが語られる。一方で「オールド・マン」は名前を持たない囚人が、洪水に巻き込まれた人を救助する話である。ちなみにオールド・マンとは、ミシシッピ川の俗称のことらしい。

 

愛と苦しみが同じものだということ、そして愛の価値はそれに自分が支払う犠牲の総計だということよ(65頁)

シャーロットが話すこの言葉に、この作品にある愛の形全てが表されているように思う。

 

の作品はフォークナー41歳の時の作品だ。予想通り難解で読み終えるのに随分と時間がかかってしまった。フォークナーというと表現されるのが「意識の流れ」という手法だが、それがどういうものなのか、どこに当たるのかは私にはわからない。そんな手法を誰かが言い出したせいで、余計に難しい印象になっている気がする。

 

頭で、二重小説について「今であれば当たり前にある」と書いたが、いやいや、当たり前にある場合は、最後には二つ(ないしは複数)の場面がひとつに結びつくことが多い。この作品は最後までひたすら二つの作品が並列し、交わりもせず終わる。だから、やはり斬新なのは今であっても同じ。

 

わらないのに、不思議と二つの作品がお互いを高め合い、なくてはならないものにしている。フォークナー自身は「野生の棕櫚」のシャーロットとウィルボーンの愛の物語がメインで、「オールド・メン」はただの背景に過ぎないと言っているが、私はそうは思わない。囚人たちの生き様もまた、力強く尊い。洪水に飲み込まれ、妊婦を助ける迫真のシーンは読み応えがあった。また、巻末に挿入されたフォークナーによるノーベル文学賞受賞スピーチによる「作家の意義」が印象的だった。

 

日、3泊4日の出張がありこの本をお供に持って行ったのだが、例の如くほとんど進まなかった(旅路ではいつもそうだ)。一冊だと心許なかったので文庫本をもう一冊鞄に潜めたのだが、そもそも一冊めの数十頁しか進まない。どうやらフォークナーを選んだのが間違いだった。日常から離れたときには、静謐さを保てるわけがないもんな。

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