『さびしさについて』植本一子 滝口悠生 ★
読んでいるあいだ、ずっと胸がいっぱいで、喜びと苦しさとが一緒くたになったような気持ちになった。儚いけれど心地の良い往復書簡だ。
滝口悠生さんの本だ!と嬉しくなって買った本だが、共著の植本一子さんの名前は知らなかった。植本さんは写真家である。それなのに、なんて淀みのない素直であたたかい文章を書く人なんだろうと思った。文筆業でもやっているんじゃないかなって思っていたら、やはりエッセイストでもあるようで既に何作か刊行されている。
滝口さんがフィクションを書く理由というか小説観をこんなふうに記していた。これがとてもしっくりきたのだ。
「小説でなくては書かれえなかった場面を書けたらいいな」
「劇的なシーンや事件に限らず、一見なんでもないような時間がそのひとにとってはどうしてか忘れがたいものになる、みたいな瞬間で、そういう名前のつけにくい経験に、小説という散文の形は行き着くことができて、現実に生きているひとが経験する同じような場面を忘れたり気づきそびれてしまわぬよう支えることができるのではないかと思っている」(34頁)
思えば滝口さんの小説は何を読んでも心地よくて、私の読書生活(もはや人生の)の大事な要素になっている。小説でも滝口さんの思想や文体に溺れてひたすら「うんうん」と共感しまくりだが、特にこれは書簡という形で自身の出来事や思いを綴り、また植本さんという具体的な方に話しかけているものだから、より一層滝口さんの思考が溢れている。
滝口さんは言わずもがなだが、植本さんの文章もとても読みやすく何よりあったかい。魂が込められている。表題の「さびしさ」がより強いのは植本さんで、それをやんわりと受け止めているようなのが滝口さんかな。植本さんの文章を読むと、心配症だし自分を卑下しすぎなんじゃないかとかそんな気配がある。どこか寄り添ってあげたくなるような感じに思えるのは、彼女が旦那さんを癌で亡くした経験があるからかも。
さびしさというのは男性よりも女性のほうがより感じやすいのかもしれない。かつてある男性に「さびしいという感情がよくわからない」と言われたことがある。人による「さびしさ」の感じ方の違いだったり、どういう状態が「さびしい」のか線引きが難しいからどうしても主観的なものになる。今この時に感じたさびしいという気持ちは辛くて悲しいものだけれど、それが時間を経てなくなっていくことにも植本さんは寂しいと書いていた。植本さんは「さびしい」という感情をとても大切にしている。喜怒哀楽という四文字の中にあるわかりやすい感情だけでなく、人が感じる感情全てを愛おしく思うこと、それが大切なんだと考えるとなんだか楽になれる気がした。
植本さんは「ひとりじゃないとわからないことがある」「ひとりでいることの寂しさが反転して、喜びみたいなものに変わったように感じた」と書いている。それに重ねるようにして滝口さんは「本はひとりで読むもの」だし、「文章を書くこと」もひとりでないと出来ないとしている。
元々、子供について書き留めておいたいということから、それぞれの子供を目にしながら、子育てについてのあれやこれやが思いのままに綴られる箇所が多い。2人の子供たちがいつかこの本を読んだときに、かけがえのない財産になるだろうと思う。
子供を育てるという経験は、おそらく人が生きていくなかで重要な出来事なのだろうが、私はそれを選ばなかった。後悔しているわけではないし自分で決めた人生だけれど、なんとなくこういう本を読むと少しだけ「さびしさ」みたいなものが生まれる気がするのだ。でも、そういう感情になることもある意味ひとつの得難き感情であるのだ。