書に耽る猿たち

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『オッペンハイマー』カイ・バード マーティン・J・シャーウィン|愛国心が強すぎた彼は何と闘ったのか

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オッペンハイマー』[上]異才[中]原爆[下]贖罪   カイ・バード,マーティン・J・シャーウィン 山崎詩郎/監訳 河邉俊彦/訳 ★★

早川書房[ハヤカワ文庫NF] 2024.03.02読了

 

年広島旅行をした。広島を訪れるのは初めてで、観光名所を中心に見どころを押さえたが、何よりも原爆ドーム原爆資料館は印象的だった。辛い気持ちになったが、日本人として見てよかったと心から思う。

 

爆が投下されたのは広島と長崎のみ。日本は唯一の被爆国である。原爆を開発したのが「原爆の父」と呼ばれるロバート・オッペンハイマーだ。日本人なら嫌悪感を抱く人が多いだろう。ましてや、当時原爆のせいで亡くなった人、被爆した人、親族や大事な人を奪われた人は絶対に許せないはずだ。

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原爆ドーム 2023.07.16撮影 

 

かしそれは原爆を作った人や指揮をした当時の米国大統領にというよりも、それ以上に「戦争」というものに対する怒りとやるせなさなのだと思う。それから「核兵器」に対する恐怖。また、自分が当たり前のように日本人である前提で考えているが、他国の人間だったらどう思うだろう。外国文学を多く読むようになってから、よくこうしたことを考えるようになった。

 

本では放映出来ないだろうとされていたヒット映画、多くの賞にもノミネートされている『オッペンハイマー』は、ついに今月末から日本でも公開されることになった。この作品はその原作伝記で2006年にピュリッツァー賞を受賞している。

 

んなことであれ世界で名を馳せた人物は、多くの場合生まれや育ち方に特異性がある。オッペンハイマーもその例に漏れない。幼少期から天才ゆえの苦悩と葛藤がいくつもあった。コルシカ島の徒歩旅行の夜、懐中電灯の下でマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』を読んだことは読書人生最高の経験であったと後に話している。鬱病ブラックホールから抜け出せたのは、精神科医ではなく一冊の本であったのだ。文学はやはり素晴らしい。

 

スアラモスの科学者たちの間には「オッペンハイマーに任せれば、正しいことができる」という共通の感覚があった。(中巻230頁)「マンハッタン計画」の指揮を任された彼には、天才物理学者の範疇を超えて人間としてのカリスマ性があったのだ。

 

ッペンハイマーは自国アメリカを愛し過ぎていたのだと思う。愛国心がある彼にとって自国のためにできる限りのことをするのは当然ではなかろうか。もし原爆完成前にドイツが降伏せずに予定通りドイツに投下していたら、また私たちの考え方も違っていたかもしれない。しかし兵器としての非人道性は肯定されないし「誰が、何が悪いのか」という視点になるとどうしてもうろたえてしまう。

 

島と長崎への原爆投下については、中巻の中盤ほどでそんなに頁を割かれていない。私たち日本人は、この本を読む時に勝手にあの悲惨な惨禍をクライマックスというか最大の出来事と捉えてしまうが、このノンフィクションはそもオッペンハイマー自身の人生について書かれたものなのだ。

 

ッペンハイマーの陥落と苦悩は、1945年8月以降に始まる。オッペンハイマー水素爆弾を含めた新兵器は「邪悪で、侵略者のための兵器であり、恐怖の兵器」であると警告し核軍縮を呼びかける。それが水素爆弾を推し進める人々からは目の敵となる。また、ソ連スパイ疑惑からアカ狩りの被害者となる。自分が常に監視の目にさらされ、盗聴され尾行されるとは、考えただけで生きた心地がしない。彼の人生の後半はアメリ共産主義との闘いの物語であるといえよう。

 

理に向かいワシントンに向かう直前に、旧友ビクター・ワイスコップから手紙を受け取る。これがなんとも思いやりのあり、お守り、宝物となるような素晴らしいメッセージだ。

わたし、ならびにわたしと考えを同じくするすべての人が、あなたの闘っている戦はわれわれ自身の戦であると知っています。この闘いの中で一番の重荷を背負わなければならない人として、なぜか運命はあなたを指名しました。われわれの生きる目的すべてにかかわる精神と原理を、あなたほど代表できる人が、この国に他にいるでしょうか。気分が落ち込んだときは、われわれのことを思い出してください。今までどおりのあなたであること、そしてすべてが良い結果に終わることを祈っています。(下巻236頁)

 

ッペンハイマーと愛し合っていたが結婚は叶わなかったジーン・タトロックとの恋の行方も、最後は胸が痛くなった。また、娘であるトニーの心の葛藤はいかほどのものか。彼女の人生を紐解くのもまた意義があると思う。そして、オッペンハイマーの弟、フランクが1969年にサンフランシスコに建てた「エクスプロラトリウム」という科学教育博物館は世界で一番おもしろい科学館であるというし、いつか行ってみたいものだ。

 

者の一人シャーウィンは、序文でこのように買いている。1人の物理学者の発明や栄光を書いたわけではない、人生そのものを書いたのだ。

人間の公的な活動やポリシーの決定は(オッペンハイマーの場合は彼の学問も含めて)、その人の生涯にわたる個人的経験によって導かれる、という信念に基づいて調査され、書かれたきわめて個人的な伝記である。(上巻31頁)

んなにも魅力的で人を虜にする人物を私は知らない。上中下巻のとても長い旅であったが、興奮とともに充実した読書時間となった。25年をかけてこの伝記を作り上げた著者2人にも敬意を表したい。映画も絶対に観よう。

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