角川文庫 2020.9.14読了
実はまだこの作品は未読であった。誰もが知る有名な作品だからこそ、かえって読む機会が遠のくというのは実はよくあるのではないだろうか?先日福永武彦さんの『草の花』を読んでから堀辰雄さんの作品を早く読みたいと思っていた。
この作品は文庫本だけでも多くの出版社から刊行されている。短編なので他の作品もいくつか一緒に収められており、それが出版社によって異なる。日本語(訳されていない)の作品だし特にどの文庫本でも良いと考えていたのだが、訪れた書店にはこの角川文庫の本しかなかった。これも縁だと思い購入したのだが、どうだろう、表紙の美しいイラストが気に入った。目を凝らすと木蔭の奥にはキャンバスが見える。
表題3作以外にも短めの短編と詩が収められている。表題の3作は、なんと全て関連したものだったのだ。『美しい村』に登場する女性、『麦藁帽子』を被る少女、すべて『風立ちぬ』の節子だったとは。そして、小説の域を超えて、堀さんを彷彿とさせる自伝的小説だった。
思いのほか構成が込み入っていて少し戸惑った。時間軸と場所があやふやな感じがする。どこか違和感を覚えたのは「お前」という言い回しだろう。今でこそ女性・妻に対して「お前」と呼ぶのは威圧的で嫌がる人が多い。しかし一方で、男性は守ってあげたいと思ったり親しみを込めて使う。また、女性からみると独占されている感じもあり、人によっては(一部かもしれないが)喜ぶ人もいよう。また、バルコン(=バルコニー)やイデエ(=イデア)といったひと昔前のカタカナが時代を感じさせる。
読み初めは戸惑いこそ感じたが、美しくたおやかな文体、何よりも風景描写が細やかで瑞々しく、まるでその地にいるかのような気にさせられる。匂い立つ四季の移ろいも鮮やかだ。なんというか、この作品はじわじわと良さが際立ってくる感じがする。きっと数年後に読み返したらより強くそう思う気がする。
サナトリウム(療養施設)で生活をすると節子と「私」。病魔に侵された節子はいずれ死に至ると連想されるのだが、不思議と悲しみを感じさせず生きる活路を見出せる。「風立ちぬ」の「ぬ」は否定ではなく過去形の意だ。風が立った(起きた)、風が吹いたという意味である。風を感じながら、愛し合った節子を「私」は肌で感じ生きていく。
たまたまついていたTV番組『徹子の部屋』で、料理家の平野レミさんがゲストだった。数ヶ月前に最愛の夫、和田誠さん(私も大好きなイラストレーターさん)を亡くしたばかり。面白おかしく想い出を振り返っていたが、最後にレミさんが「私、この先どうやって生きていけばいいんでしょう」と聞く。徹子さんは「誠さんを強く愛しそして強く愛された、もうそれだけで生きていけるじゃないの」と。2人は号泣。あぁ、こういうことなんだなとこの場面を思い出した。
余談だが、このタイトルを見るたびに松田聖子さんの歌『風立ちぬ』がどうしても頭の中を駆け巡る。ある程度歳を重ねた人はみんな同じだろうか?実際、当時のソニーのディレクターがこの小説が好きだったため、題材として企画したそう。「風立ちぬ」という言葉と響きはそれだけで美しく、人を前に向かせる。