書に耽る猿たち

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『名誉と恍惚』松浦寿輝|芹沢一郎の運命と生き様に魅了される

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『名誉と恍惚』上下 松浦寿輝 ★★

岩波書店岩波現代文庫] 2024.03.21読了

 

年前に上海1泊3日の弾丸ツアーをしたことがあって、上海ディズニーランドだけを目的に楽しむという旅だった。泊まったホテルも出来たばかりのトイ・ストーリーホテル。日本のディズニーランドに比べると待ち時間も全然耐えられるし人の多さもそんなに気にならない。圧巻だったのが「カリブの海賊」で、これは2回も乗り今でも鮮明に憶えている。

 

、、上海といえば私の中でその記憶が新しいのだが、近代史からみると上海事変など日本とは重要な関わりを持っている。この物語の舞台は1937年、日中戦時下の上海で、日本人警官芹沢一郎は陸軍将校嘉山からある依頼を受ける。これがとんでもない運命の幕開けだったのだ。

 

巻の中盤までは、話のスピードが超絶にゆっくりで、「どうかなぁ」と思っていたが、芹沢本人が何かの陰謀に巻き込まれたと気付くころには、読んでいるこちらは前のめりになり夢中になってしまった。あぁ、長編小説の醍醐味とはこれよ。芹沢の怒涛の運命が、読むものを魅了して脳天をずぶずぶに刺す。

 

沢の心理描写がしつこいほどに細かく書かれている。思慮深いというか疑り深いというか、警察官ならではの「各選択肢による未来の方向」のようなものをこれでもかと深掘りしている。一見深読みし過ぎではないか、もっと信用しないとしんどいのではないかと心配になってしまうが、これも芹沢の性であり、もはや日本人は往々にしてこんな気質があるのだと思う。

 

沢が呉淞口(ウーソンカゥ)の大部屋の寝室で日本語で書かれた新聞を目にしたとき、名状しがたい懐かしさが込み上げてくる。字画の込み入った表意文字と柔らかな曲線で出来た音標文字が快く目に映る。つまり、漢字とひらがなである。まさにそうだよなぁ、日本語って言葉に発したものよりも、書かれたものが美しい。もちろん英語はカッコいいし、イタリア語、ロシア語も好きだ。ポルトガル語やハングル語も味がある。そしてフランス語は言葉も音感も美しい。でも、もしかすると日本語が一番崇高で美しく、深いのではないか。これは贔屓目にみなくても、そう思うのだ。

 

浦さんの奏でる文章は眩暈がするほど美しい。やはり綺麗な文章を書く人だ。普段あまり目にしない言葉が頁のそこかしこに出てきて(例えば「春風駘蕩」「瀰漫(びまん)」など)、その都度その意味を考えたり一呼吸おいて調べるのもまた乙なのだ。一時期集中して読んでいた高橋克巳さんの小説を読んでいるような感覚になった。

 

間の心理の機微だけではなく、情景描写も細やかである。退廃的で澱みのある空気が鮮明に映し出された共同租界・上海が脳裏に思い浮かぶ。このストーリーと、この世界観を映画にできたらさぞかし素晴らしいだろうなと思う。

 

行本が箱入りで分厚いので早く文庫化しないかなと首を長くして待っていた。何年経ってもなかなか出ないから、何度も単行本を買いかけた。岩波現代文庫から出るとは思わず、ちょっと高価で「うーん」となったけれど、谷崎潤一郎賞ドゥマゴ文学賞を受賞しているだけあって、重厚で濃密な物語世界を存分に楽しめた。松浦さんの小説の中では断トツにストーリー性とリーダビリティー性が高い。時間はかかるけれど、どっぷり長編小説に浸かりたい人にはおすすめだ。

 

※※※

実はこれを読んでいる途中、自身2回目の新型コロナウイルスに感染してしまい、数日読めずに中断してしまった。こんなにおもしろい小説なのにと歯痒くてベッドで悔しかった。やはり、健康でないと読書はもちろんのこと何も楽しめないなと実感した。

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