『河岸忘日抄(かがんぼうじつしょう)』堀江敏幸
新潮文庫 2021.3.4読了
先月読んだ堀江敏幸さんの『雪沼とその周辺』がぴたりと好みに合っていたから、2冊めを手に取る。読売文学賞を受賞された長編である。これは小説なのか随筆なのか、エッセイなのか。まるで保坂和志さんの本を読んでいるかのように曖昧極まりない作品だった。
それにしても美しいこの文体は堀江さんならではで、字の並びを見ているだけで静謐な空気になる。主人公の「彼」は河岸に停泊している船に住んでいる。日本ではなくフランスだろうか。たまに訪れる郵便配達夫、船を貸してくれる老齢の大家さん、探偵の枕木さん、そして見ず知らずの少女との会話により、日々の営みがほのかに浮かび上がる。
個人的に最近気になっているイタリアの小説家ブッツァーティさんの本が作中に登場する。これは読むしかないなと思う。気になる本や作家が読んでいる作品に登場すると、もはや運命のように感じてしまう感覚。クロフツ著『樽』は昔読んだけどそんなに合わなかった気がする。チェーホフ氏はまだ読んだことがない。クリスティー著『象は忘れない』もまだ。「彼」は船に置いてある本を読んだり、置いてあるレコードを聞く。
ストーリー性があまりないのにも関わらず、こんなにも心惹かれる作品を作ることが出来る作家を尊敬する。いつの間にかこの船に住む気分になり、日々の暮らし向きがとても大切なものに思えてくるのだ。彼が住む世界には便利なものはほとんどない。それでもどうしてか豊かで幸せに暮らしているように感じる。
ところで、どこの出版社にも言えるのだが、同じ文庫レーベルといえども作品によって印字体が異なるのはどうしてだろうか。どうやら印刷する時期によって違うというわけでもないらしい。新潮文庫の堀江さんの作品はおそらく髙村薫さんの作品と同じ字体である。漢字と平仮名をタイプライターを使って刻印したような印刷で、私にはどうもこれが味わい深く思えてしっくりくるのである。