ポルトガル作家ジョゼ・サラマーゴさんが亡くなった時は国葬だったらしい。どうして大江健三郎さんが亡くなった時には国葬にはならなかったのだろう、とポル語訳者木下眞穂さんは思ったそうだ。そもそも小説家が国葬になるという慣わしが日本にはないけれど、文学賞に限らずノーベル賞を取った人には国葬があってもなんらおかしくはないかもなぁ。それほどの偉業。
大江健三郎さんの小説は5~6冊しか読んでいない。最初に読んだ『個人的な体験』には感銘を受けて物事を見る世界が大きく変わった。一方で『燃え上がる緑の木』や『芽むしり仔撃ち』は難解で読み解けなかった記憶がある。私にとって大江さんの作品は、両極端である。この短編集でも、やはり好きな作品と入り込めなかった作品とがあった。
初期、中期、後期から大江さん本人が選りすぐった短編が全部で23篇収められている。自選というのが良い。この短編集が刊行されたのは2014年。大江さんが亡くなったのが今年の3月で88歳だったから、79歳の時である。個人的に読みたいと思っている『人生の親戚』はこの中に入っていないが、追悼の意を込めてこの機会に読み耽った。
『死者の奢り』は、大学の医学部で募集していた「アルコール水槽に保存されている解剖用死体を処理する仕事」のアルバイトをする「僕」の体験がつづられている。女子学生のお腹に息づく新たな生命と死者の比喩が対照的だ。死体を運ぶ仕事がこんな風に骨折り損になるなんてやり切れないが、人生とはそんなものの連続ではないか。一つめに収録された『奇妙な仕事』という、犬を処分する作品の書き直しになっているとは知らなかった。これらを23歳で書き上げたということが信じがたい。
芥川賞を受賞した『飼育』にも圧倒された。アメリカ人黒人兵を飼うということで優位にたっていた「僕」だが、彼との触れ合いを通じ、人間として向き合い信頼感を育んでいく。それなのに、ある出来事で一変することが悲しくまた恐ろしくもある。『セブンティーン』はこんな話だったのか。自慰にふける17歳の僕が右翼になっていく。自我の目覚めと自己主張。大江さんが書くと、官能的な物語も何故かイヤラしく感じない。
ファンタジー作品だと思っていた『空の怪物アグイー』では、人間の「欠落の感情」というものについて深く考えさせられた。自分が行っていた仕事は、もしかしたら音楽家の自殺幇助だったのではないかと感じた時の主人公の戦慄は計り知れない。
『レイン・ツリーを聴く女たち』という連作短編集から3篇が収録されている。これが私小説だったことも知らず、新鮮な気持ちで読んだ。先日、復刊したマウカム・ラウリー『火山の下』を購入したのだが、その本と著者について触れられていたので読むのが楽しみになった。続く連作短編『新しい人よ眼ざめよ』でもラウリーに触れられていた。余程気に入っているようだ。「老年から死にいたるまでに集中して読むという作家」が大江さんにとってはラウリーだった。さて、私は誰になるのだろう?
後期の4作品も私小説であった。中期以降の作品は全て私小説となっており、そもそも大江さんは途中から私小説家になったのだろうか。それも障害を持って産まれた長男イーヨー(音楽家・大江光さん)についてのストーリーが中心である。
やはり後期になるにつれて観念的、抽象的になり難解さがあったが、全体として満足のできる作品集だった。特に前期の作品は素晴らしい。大江さんの描く世界は人並外れた想像力の賜物で異世界が広がる。そして、人間が生きる目的、目指すところは「死」にあるのだという一貫した想いが根底にある。質の高い日本文学に触れることで崇高な気持ちになれた。同一人物の短篇集としては、新潮文庫のモーム傑作選以来の粒ぞろいの名作集だと思う。