『雨滴は続く』西村賢太
文藝春秋[文春文庫] 2024.01.25読了
西村賢太さんの遺作であり、最大の長編作が文庫になった。このろくでなしの堕落した北町貫多がまたもや主人公、そしてもちろん私小説。西村さんの作品は短編であれ中編であれほぼ私小説だから、貫多はもちろんのこと、多くのエピソードに「あ、あの時の場面だな」という既読感がある。それをまるっとまとめたものがこの大長編私小説だ。おんなじところをグルグルとループしているようで読み進めるのに結構時間がかかった。
根が江戸川の乞食育ちで、中卒の日雇い人足上がりの貫多は、或いはそれは殆ど彼の生来の僻み根性から依って来たるところの感覚なのかもしれぬ(27頁)
自虐節のオンパレード。それでも、単純というかおめでたい奴というか。結構際どい(女性なら嫌悪しそうな)シーンもあるけど、男性だったらまぁこれが至って普通なんじゃないか、正直に語ってるだけじゃないかな。貫多は、憎めない奴なのである。
貫多は藤澤清造の「歿後(没後)弟子」を名乗る。その名に恥じないよう、自らも自滅に徹して潔い。没後弟子の資格を得るために、自らもまた私小説書きのして世にあらねばならないと思っている。没後弟子を目指す私小説家の苦悩と生き様、そして肉欲を求める彼の恋愛(と呼べるのか?)模様についての作品である。
西村さんの文章には独特の言葉が溢れている。特に印象深いのはこれら。
「結句(けっく)」・・・結局、とどのつまり、挙句の果て
「どうで」・・・どうせ
これは未読だが『どうで死ぬ身の一踊り』という著作もあることだし、西村さんらしい自虐言葉だ。そもそも藤澤清造の著作から取っているタイトルだった。
「ふとこる」・・・おそらく、懐(ふところ)から連想した西村さんの造語?
作中に多用されているが、検索しても出てこないからもしかしたら造語だろうか。でも意味なんてはっきりわからなくても文脈から大体はわかる。文章を読んでいて、こういう感覚は結構好き。
去年の3月、西村賢太さん一周忌ということで田中慎弥さんのトークショーに行った。田中さんが西村さんの一番好きな作品を、というか「よくぞこの長さを書き切ったな」という感嘆の意を込めて、この『雨滴は続く』を挙げていた。タイトルは『雨滴は続く』なのだが、田中さんは「雨滴は続くよどこまでも」という言葉を3〜4回使っていて、それは貫多の堂々巡りの人生を、もうタイトルを変えてしまうほどの印象なのだろうか。
誰が読んでもおもしろい小説というわけではないが、西村さんのエッセンスがぎゅっと詰まっていて、らしさ全開だ。最後は彼の作品が芥川賞候補になったというシーンで終わる。これは未完の遺作。できればこの続きも読みたかった。作中に貫多が想いを寄せる2人の女性が登場するのだが、その1人が文庫本の巻末に特別原稿を寄せている。実際の西村さんはどんなにか魅力的な方だったのだろう。
新人賞に応募し続けて狭き門から小説家になる人がほとんどなのに、同人誌に載った文章を見た編集者から認められ文壇に立てるとは、どれほどの文才だろう。西村さんの人生は長くはなかったかもしれないが、自らの意志を貫き私小説家として生き、尊敬する藤澤清三氏の横で眠れているとは、なんと幸せなことだろうか。