新潮社[新潮文庫] 2024.11.05読了
土蔵造りの家に住む洪作は、おぬい婆さんと二人暮らしである。伊豆の湯ヶ島という田舎町で、5歳からの幼少期を過ごした洪作の少年期の心の動きや成長が丁寧に情感たっぷりに書かれた作品である。解説で「少年期を扱った本格小説」とあり、まさにその言葉がぴったりの傑作だった。
両親に会うために、田舎からおぬい婆さんと2人で豊橋まで向かう旅路がとても印象深い。道中の見知らぬ人から貰ったお菓子をめぐる出来事もそうだが、久しぶりに会った母親との邂逅にも心を抉られるようだった。どうしてこんなにも胸がきゅっと締め付けられるような気持ちがするんだろう。迷子になるシーンでは芥川龍之介著『トロッコ』を読んだ時のような気持ちになった。
おぬい婆さんのやることなすことは、突拍子もなくて目立つから洪作としては穴があったら入りたいほどに恥ずかしくなる。「もうやめてくれ」「放っておいて」と思うのに、それでもおぬい婆さんが洪作を大好きで可愛がっていることが自分でもわかるし、洪作もまたおぬい婆さんが大事なのだ。
ところで、おぬい婆さんは本当の祖母ではなく、亡くなった曽祖父の妾である。このおぬい婆さんに対して感謝の気持ちを充分に持っていながら、素直に気持ちを伝えられなかったもどかしさ、後悔の念、そういった罪ではないが心の引っ掛かりを書くのが井上さんは本当に上手い。でもおぬい婆さんは幸せだったはず。大好きな「洪ちゃ」と最期まで一緒だったんだから。
おぬい婆さんに対する思いだけではなく、滅多に会わない母親、若い叔母のさき子、近くに引っ越してきたあき子、親戚の蘭子、孤独な祖父や気が触れた教員とのシーンが一つ一つに動きがある。洪作の気持ち、行動の一粒一粒が、まるで自分の幼少期のことのように蘇る。こんなにも繊細に少年の心の機微を捉えた作品はあまりない。
どうということはない少年の日常がどうしてこんなにもおもしろく心に響くのか。人間の普遍的なものが作品の中にあるからなのか。静かな感動がひたひたと押し寄せてくる。やはり井上靖さんは偉大な作家だと(今さらながら)改めて思い知った。
この作品は井上靖さんの名作であることは言わずもがなだ。『しろばんば』というタイトルは有名だが、ちゃんと読んだことがある人は少ないのではないだろうか。実はタイトルの「しろばんば」は最初の1〜2頁めにしか出てこない。「白い老婆」ということらしいが、夕方になるとどこからともなくその白い虫が綿屑のように舞う。
私自身、井上靖さんの本を1冊も読んでないことはないはずだけど、何を読んだか記憶にすらない。何故今まで放っていたのだろう。この小説は『夏草冬濤』『北の海』に繋がる自伝三部作の一作目である。先日伊集院静さんの自伝を読んだ時に、解説でこの自伝に触れられていた。続きが手元にないのですぐには読めないが、なるべく日を置かずに読もう。もちろん、現代小説や歴史小説も。やたらめったら新刊に飛びつかないようにしないと。井上靖さんの作品をこれから少しづつ読めることが楽しみだ。