書に耽る猿たち

読んだ本の感想、本の紹介、本にまつわる話

『ワカタケル』池澤夏樹/神話ファンタジー

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『ワカタケル』池澤夏樹

日本経済新聞出版 2020.9.26読了

 

未来SFを読んでいたから、今度は古典的な作品を味わおう。昔も昔、古事記でいう上・中巻あたりの物語だ。池澤夏樹さんは、河出書房から世界文学全集と日本文学全集を個人編集し出版している。日本全集の第1巻は、池澤さんが自ら現代語訳を手掛けた『古事記』だ。そこからこの作品『ワカタケル』が生まれた。私は池澤さん訳の古事記は読んでいないが、去年竹田恒泰さんが訳した本を読んだことが記憶に新しい。

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カタケルの「タケル」は「猛る」の意だ。お馴染みのヤマトタケルの「タケル」と同じ「猛る」が付き、強く猛り狂うほどの荒々しさを備えた彼が倭の二十一代大王(おおきみ)となる。

事記の神話を土台にした小説となっているのだが、日本語の美しさが文章と詩歌とともに感じられた。なかでも「文字」や「言葉」について、語源や本来の意味が太古から息づいていたのだなぁ、とある意味感動を覚えた。はるか昔の日本においても「魂」と「言葉」が持つ力は大きかった。

魂は人を離れてどこまでも行く。動くことで力となる。すなわち言霊。それに対して、紙に書かれ、木に書かれ、鉄の剣に刻まれた文字はその場を動かない。何百年も何千年も後まで残る。これもまた言葉の力。(301頁)

をみる力、先を見通す力を持つ女性が何人か出てくる。ワカタケルは、そんな女性たちの声を元に自らの身の振り方、闘い方を決める。移りゆく世の中では先見の明が重要だということは、やはり現代にも通じるものがある。

話の時代の登場人物の名前がややこしく、聴き慣れない人も多いだろう。個人的に私は興味深く読めたが、古事記を(多少でも)読んだことがない人には読みにくいかもしれない。漫画で読める古事記でもいいから予備知識があったほうが楽しめると思う。

ういえば、お父様の福永武彦さんも古事記の現代語訳をされている。親子揃ってこの偉業を成し遂げるなんて素晴らしいことだ。興味を持つ対象が似ているのも、文才も、同じ血が通っている故だろう。

『夏への扉』ロバート・A・ハインライン/冷凍睡眠で生き長らえる未来

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夏への扉ロバート・A・ハインライン 福島正実/訳

ハヤカワ文庫 2020.9.23読了

 

SF古典小説の名作としてよく取り上げられているため、この作品の存在は知っていたがまだ未読だった。なんでも、日本で山崎賢人さん主演でもうすぐ映画が公開されるようで、最近書店でも平積みになっていることが多い。有名作はいずれ読まなくちゃと思っている身としては、これもきっかけと思い手に取る。

SFとはもちろん知っていたが、この猫の表紙とタイトルからどんな物語なんだろう?と想像しにくかった。が、やはり究極!のSFだった。時間軸を操るタイムトラベラー的なもの。おっくうなSF、そして結構昔の作品だから読みにくいだろうと構えていたが、割とスムーズに読み終えた。

凍睡眠(コールドスリープ)というアイデアで長期間人間の保存が可能になるというサイエンス。冷凍保存されたダンは、30年後の世界で何を見るのか。そして、タイムマシンを使って何をしようとするのか。SF好きにはたまらない設定にわくわくするファンも多いだろう。

もそも、人体冷凍保存というのは現代でもあるそうで、Wikipediaによると、2016年現在で世界で死後に冷凍しているという事例が350人もあるとか。この場合は、蘇生する技術が発見されたら解凍、治療するというものなので初めから生きた人間を冷凍するわけではない。なんか空恐ろしい感じがするけれど、ハインラインさんの「冷凍睡眠」というアイデアも遠い未来には現実になる可能性もあるのかと考えたり。

は、どちらかといえばSFは苦手な部類に入るのだけど、最近はSFの良さというか、ハマる人の気持ちも少しづつわかり始めている。なんというか、現実離れしているため、より想像力を掻き立てられ、高揚感が増す感覚がある。

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は映画で1番と言っていいほど面白いと思うし、『スターウォーズ』の世界観も大好きだ。私の頭の中では、SFは映像から取り込むようになっているんだろうな、と思う。

れでも、文章でしか味わえない感動を求めて、いまだ未読の『ソラリス』や『幼年期の終わり』をそのうち読もうと思っている。あと、日本人で言えば、小川一水さんの作品なんかも。

『死神の棋譜』奥泉光/読んでいて詰んだかも

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『死神の棋譜奥泉光 ★

新潮社 2020.9.21読了

 

井聡太二冠の誕生、羽生善治九段はタイトル通算100期の記録がかかる竜王戦に挑戦するなど、将棋界を取り巻く話題に事欠くことがない昨今。そんな中、将棋を愛してやまない著者の奥泉さんが見事な現代ミステリを仕上げた。

は将棋のことは正直疎い。先日少し記事にも書いたが、ちょうど椎名誠さんの『アド・バード』を読んだ頃、将棋ブームに乗っかり、子供向けの将棋盤(駒が磁石でくっ付くタイプ)と、簡単なルールブック、詰将棋初級本を買ってほんの少しかじった程度だ。そんな最低限の知識しかない私だけど、この小説はすこぶる楽しめた。

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や、もう奥泉さんにしかこんな小説は書けないでしょ!というような作品。将棋をベースにしたミステリにSFとファンタジーが融合したような感じだ。名人戦の日に、不詰めの図式を拾った元奨励会員の夏尾が行方をくらました。同じくプロ棋士になれず将棋関連の物書きを生業とする天谷と北沢は独自に調査を進めていく。真相は如何にー。

将棋の真理というのかな、そんなものに到達したいって願望は、将棋指しなら、誰でも多かれ少なかれ持ってるんじゃないかと思うんだよね。(53頁)

れは物語の初めの方に、天谷が梁田八段から聞いた言葉だ。この「将棋の真理」が重要なテーマになっており、これが失踪した夏尾を始めとし大きくかかわってくる。将棋に魅入られ将棋に人生を賭ける、これはある意味幸せなことだろう。そして、「将棋の真理」の「将棋」を、誰もが命を賭けられる他のものにも置き換えて考えことが出来るだろう。

現実的なストーリーもあるのに、丁寧でキチンとした文章、奥泉節とも言えるリズミカルで独特な文体はさすが芥川賞作家である。それなのに、この作品は直木賞的な小説なのである。いわゆる、ストーリー性が極めて優れており徹夜本と言えるだろう。

棋を描いた作品では大崎善生さんの『聖(さとし)の青春』、囲碁の世界を描いた作品では百田尚樹さんの『幻庵(げんなん)』が私の中では印象深く、再読したいと思える作品である。この『死神の棋譜』もそのラインナップに間違いなく入るし、エンタメ性を求めている方にはなおのことお薦めできる。

び3年前のブームに乗っかった時の話に戻るが、当時藤井聡太さんのクリアファイルと扇子を求めて東京の将棋会館にまで行った(ミーハー!)。隣にある鳩森八幡神社にも行き、お詣りをした後は当然の如く御守りを買い鳩みくじを引いた。この鳩森神社も作中にしっかり出てきた(かなり重要な場所として)から、余計に楽しめた。

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『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル/極限状態から見えてくるもの

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『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル 池田香代子/訳

みすず書房 2020.9.19読了

 

ウシュヴィッツ強制収容所。その名を聞くだけで恐ろしく震えそうな気持ちになる。ナチスが捕虜になった人を大量虐殺したと言われている場所だ。この強制収容所から奇跡的な生還を遂げたのが、著者のヴィクトール・E・フランクルさんだ。ナチスオーストリア併合により、ユダヤ人という理由だけで逮捕され、強制収容所へ追いやられた。

は、フロイトアドラーを師事する精神医学者、心理学者だ。ただ記録としてこの本を書いただけではなく、人間の生き方を奥深いところから突き詰めた哲学的な作品である。アメリカでは、人生で最も影響を与えた本としてベスト10にも入る。日本でも版が重ねられ、新訳が出るほどだ。

れだけ読み継がれているので敢えて私がここで要約を伝える程もない。書いてあることも素晴らしいのだが、フランクルさんはよくもこんな極限状態にありながら、冷静に分析し、強い心で生き抜くことができたのか。私はむしろそれが不思議である。常軌を逸した彼の精神力と生命力に敬意を抱くばかりだ。

強制収容所の生活が人間の心の奥深いところにぽっかりと深淵を開いたことは疑いない。この深みにも人間らしさを見ることができたのは、驚くべきことだろうか。この人間らしさとは、あるがままの、善と悪の合金とも言うべきそれだ。(145頁)

容所での生活は目を覆いたくなるような凄まじさがある。それならば、肉体的にも精神的にも自分を痛めつけ、むごい仕打ちをする監視員はどんな人達だろうか。フランクルさんは、そんな中にも人間としての優しさや尊厳に溢れた人がいることを知る。決して「場所」が善悪を決めるのではない。

のようにある意味で監獄以上の場所に身を置き、そこから這い上がった人にしか人間の尊厳や意味を知り得ないのであれば、私たちは彼のような方の声に耳を傾けるしかないと思う。作中には文豪ドストエフスキートルストイトーマス・マンらの言葉も言及されていた。確かドストエフスキーは監獄を経験している。

1月程前にたまたまついていたNHKの番組で、アウシュヴィッツ強制収容所が特集されていた。今でも当時の謎を解明するために特殊チームが組まれ、日々研究を続けているらしい。そこで何が起き、どのようにして人が殺められたのか。未だにわからない部分も多いようだ。私もこの問題について理解を深めたい、知らなくてはならないと強く感じた。

『家族のあしあと』椎名誠/ほっこり、ほっこり

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『家族のあしあと』椎名誠

集英社文庫 2020.9.17読了

 

井聡太さんが最初にメディアに登場するようになったのは、2016年に史上最年少でプロ棋士になった時だ。今の二冠タイトルも仰天、快挙だが、当時は14歳でまだ素朴な少年だったからより目立っていたと思う。その頃藤井さんが愛読書として挙げていた本の1つが椎名誠さんの『アド・バード』。ブームに乗って読んだけど私としては、やっぱり頭の構造が違うのかなぁと、あまり合わなかったという苦い記憶がある。

名さんの本を読むのはそれ以来だ。この作品は、文芸誌『すばる』に2015年4月〜2017年2月まで連載されたものをまとめたもので、それが文庫化されたもの。自身の幼年時代を振り返る私小説である。

らの幼少期を振り返り、家族のこと、住宅のこと、学校のことなど、自分を取り巻くエピソードを面白おかしくふんだんに散りばめている。名エッセイストでもあるように、軽やかで読みやすい文体はストレスを感じさせず気楽に読める。いくら長編ゴリゴリの固い話が好きでも、たまにはのんびりと読みたい時もある。そんな時に椎名さんの本はうってつけ。

名さんが自分の息子のことを書いた『岳物語』は私はまだ読んでいない。だから、息子と椎名さん本人の若かりし頃を比べるという読み方はできない。椎名さんの子供時代を感じると、自分の幼き時の情景がうっすらと蘇る。友達とこうやって遊んだなとか、子供の時はこんなことに夢中になっていたな、と。

化祭での演劇のエピソードを読んだ時には、文化祭には非常に力を入れていたことを思い出した。演劇はやはり誰にとっても魅力があり、演じる人物を誰にするか?などクラスは大いに盛り上がったものだ。あの頃は損得感情も何もなく、純粋にイベントを楽しんでいた。みんなで良いものを作りたい、楽しくしたい、ただそれだけの一心で学校に通っていた。

母はその頃、三十代だったのだろうか、あるいは四十代だったのか、計算すれば正確にわかるのだが今は記憶の風景を重視して曖昧にしておこう。(56頁)

んな文章をさらっと書けてしまうところが椎名さんだ。「記憶の風景」という表現がなんとも素敵である。全編通して、ほっこりとした温かい気持ちになれる。こんな読書もいいものだ。

『太陽がいっぱい』パトリシア・ハイスミス/他人に成りすます

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太陽がいっぱいパトリシア・ハイスミス 佐宗鈴夫/訳

河出文庫 2020.9.16読了

 

いぶん昔のことだが、マット・デイモンさん主演映画『リプリー』を観た。当時はそのストーリーと残虐性に取り憑かれ、なんて面白い映画だろうと思った記憶がある。そもそもマット・デイモンさんが出る映画って結構面白い作品が多いよなぁ。演技も上手いから幅広い役柄をこなせるハリウッドスターの1人だ。

の小説はその映画『リプリー』の原作である。リプリーとは、主人公トム・リプリーのことだが、原作のタイトル『太陽がいっぱい』はどういう意味があるのかな?と考えながら読み進める。

分ではない、他の誰かになりきること。こんなことは可能なのだろうか?あの人みたいになりたい、自分が憧れる人になり変わりたいと、誰もが一度は思ったことはあるだろう。だけど、そんな風に思うのはほとんど子供の時のこと。大人になるにつれ、自我が目覚め自分の生き方を知らずのうちに考える。というよりもむしろ他人にはなれないと半ば諦める。

うした意味でこのリプリーは子供の心を持った大人なのかもしれない。リプリーは、ディッキーに成り切る。嘘が嘘で塗り固められる。興味深いのは、ディッキーに成り切ったリプリーが元のリプリーの姿に戻るとき、「もっとリプリーらしくならなくちゃ」と本来の自分をも真似るようになっていること。ここまでくると、もうリプリーは誰も知らない新たな人物となる。

トーリーは知っているのに、スリリングな展開と逃げ惑うリプリーの手に汗握る攻防に、読んでいる自分も息切れするようだ。文学的にどうというのは差し置いて、サスペンスとしては極上の作品だ。リプリー氏のなんと人間味のないことよ。それがこの小説の良さなのだが。リプリーシリーズはこの後4作続いている。リプリーがどうなっちゃうのか、すごく気になる。

んと原題は『The Talented Mr. Ripley(才能あるリプリー氏)』だった。『太陽がいっぱい』というのは、1960年にフランスでアラン・ドロンさん主演で映画化された作品のタイトルで、それがそのままこの小説の邦題になったようだ。太陽と海とヨット、引き締まった若い肉体から連想され『太陽がいっぱい』だったのだ。私が観た『リプリー』はもっと陰鬱な雰囲気だったのだけれど。

くら映画として面白い作品でも、たいてい原作には勝てないと思うのだが、これは小説も映画も同じくらい良いと思う。私が観たのは『リプリー』だけだが。古いほうの映画『太陽がいっぱい』も機会があれば観てみたい。

『風立ちぬ・美しい村・麦藁帽子』堀辰雄/風が立ったら前を向こう

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風立ちぬ・美しい村・麦藁帽子』堀辰雄

角川文庫 2020.9.14読了

 

はまだこの作品は未読であった。誰もが知る有名な作品だからこそ、かえって読む機会が遠のくというのは実はよくあるのではないだろうか?先日福永武彦さんの『草の花』を読んでから堀辰雄さんの作品を早く読みたいと思っていた。

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の作品は文庫本だけでも多くの出版社から刊行されている。短編なので他の作品もいくつか一緒に収められており、それが出版社によって異なる。日本語(訳されていない)の作品だし特にどの文庫本でも良いと考えていたのだが、訪れた書店にはこの角川文庫の本しかなかった。これも縁だと思い購入したのだが、どうだろう、表紙の美しいイラストが気に入った。目を凝らすと木蔭の奥にはキャンバスが見える。

題3作以外にも短めの短編と詩が収められている。表題の3作は、なんと全て関連したものだったのだ。『美しい村』に登場する女性、『麦藁帽子』を被る少女、すべて『風立ちぬ』の節子だったとは。そして、小説の域を超えて、堀さんを彷彿とさせる自伝的小説だった。

いのほか構成が込み入っていて少し戸惑った。時間軸と場所があやふやな感じがする。どこか違和感を覚えたのは「お前」という言い回しだろう。今でこそ女性・妻に対して「お前」と呼ぶのは威圧的で嫌がる人が多い。しかし一方で、男性は守ってあげたいと思ったり親しみを込めて使う。また、女性からみると独占されている感じもあり、人によっては(一部かもしれないが)喜ぶ人もいよう。また、バルコン(=バルコニー)やイデエ(=イデア)といったひと昔前のカタカナが時代を感じさせる。

み初めは戸惑いこそ感じたが、美しくたおやかな文体、何よりも風景描写が細やかで瑞々しく、まるでその地にいるかのような気にさせられる。匂い立つ四季の移ろいも鮮やかだ。なんというか、この作品はじわじわと良さが際立ってくる感じがする。きっと数年後に読み返したらより強くそう思う気がする。

ナトリウム(療養施設)で生活をすると節子と「私」。病魔に侵された節子はいずれ死に至ると連想されるのだが、不思議と悲しみを感じさせず生きる活路を見出せる。「風立ちぬ」の「ぬ」は否定ではなく過去形の意だ。風が立った(起きた)、風が吹いたという意味である。風を感じながら、愛し合った節子を「私」は肌で感じ生きていく。

またまついていたTV番組『徹子の部屋』で、料理家の平野レミさんがゲストだった。数ヶ月前に最愛の夫、和田誠さん(私も大好きなイラストレーターさん)を亡くしたばかり。面白おかしく想い出を振り返っていたが、最後にレミさんが「私、この先どうやって生きていけばいいんでしょう」と聞く。徹子さんは「誠さんを強く愛しそして強く愛された、もうそれだけで生きていけるじゃないの」と。2人は号泣。あぁ、こういうことなんだなとこの場面を思い出した。

談だが、このタイトルを見るたびに松田聖子さんの歌『風立ちぬ』がどうしても頭の中を駆け巡る。ある程度歳を重ねた人はみんな同じだろうか?実際、当時のソニーのディレクターがこの小説が好きだったため、題材として企画したそう。「風立ちぬ」という言葉と響きはそれだけで美しく、人を前に向かせる。

『首里の馬』高山羽根子/孤独に羽ばたく

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首里の馬』高山羽根子

新潮社 2020.9.13読了

 

だ記憶に新しい、第163回芥川賞受賞作。同時受賞は遠野遥さんの『破局』、直木賞馳星周さんの『少年と犬』だ。どれを読もうか考えていて、馳星周さんの作品は過去に何冊か読んだことあるし、では知らない作家さんかなと思い書店でパラパラとめくり、なんとなく高山さんの作品を読むことにした。

イトルに首里とあるくらいだから、沖縄の話である。主人公である未名子は、小さい頃から人と交わることが苦手で学校も休みがち。それを見兼ねた父親が、郷土資料館に連れて行った。未名子は、資料館長の順(より)さんの集めた資料を見ることで「自分のまわりにいる人たちやひとの作った全部のものが、ずっと先に生きる新しい人たちのあしもとのほんのひと欠片になることもある」と考えて人間に興味を持ち始める。

い郷土資料館で多くの物を確認しインデックスをつけ、SDカードに保存していくという(半分趣味の)作業をする傍ら、未名子の本来の仕事は、どこか遠くの国の人へオンラインでクイズを出すというものだ。不思議な仕事だが現代にはあり得なくもないような。1人事務所でパソコンと向かい合い孤独に見えるけれど、オンラインで誰かとは繋がっている。SNSなんてその延長ではないか?

当にここ最近の文学作品は、孤独な人が描かれることが多いように思う。それだけ生身の人間と交わる機会が減っているからだ。結局人間は元来孤独な生き物であって、「孤独を楽しめるか」が「良い生き方」に繋がるのではないかと最近思う。

思議な読後感だ。まぁ、芥川賞をはじめとした純文学作品にありがちな。現代の作品らしいと思うが幻想的かつSFな感じもあり、馬に乗る行為から連想されるような浮遊感もある。未名子は資料館での作業とオンラインの仕事に自分なりの決着をつけ、宮古馬とともに羽ばたくように駆け巡っていく。

み終えてから選評を見たのだが、『首里の馬』を推しているのは松浦寿樹さんと川上弘美さんだった。こういうとりとめもない作品好きそうだもんなぁ。遠野遥さんの『破局』を推しているのは平野啓一郎さん、小川洋子さん、山田詠美さん。もしかしたらこちらの作品のほうが私に合っているかもしれない。

『森の生活 ウォールデン』H.D.ソロー/自然界で生きよ

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『森の生活(ウォールデン)』上下 H.D.ソロー 飯田実/訳

岩波文庫 2020.9.11読了

 

ォールデンとはアメリカ・マサチューセッツ州にある湖のことである。この作品は、約170年前にヘンリー・デイヴィッド・ソローさんが2年2ヶ月に渡りウォールデン湖畔で自給自足をした時の生活記録が綴られたものだ。

もなお読み継がれているのは、人間の生き方における哲学のようなものが示されているからだ。人間も自然界のひとつの存在だから、空・海・地、動物、虫、植物など、あらゆる存在と同等に生きるべきだというメッセージが込められ、「人間はどう生きていくのか」を考える指南書のようにも思える。

ローさんは、つぎのあたった服を着ている人がいたとしてもそれを理由に評価を低くすることはないと言う。しかし、世間ではつぎはぎの服を着て外を歩くよりも、脚を引きずって歩くほうがマシだという風潮がある。脚を怪我するほうが良いというのだ。

ほんとうに尊敬できるものよりも、世間で尊敬されているものを重視しているからだ。(上巻45頁 経済)

これは、現代社会における真実を解いている。いくら表面を取り繕い名声に気を取られても、そこに真理はない。真理を見抜くことが大切だと述べている。

た、もし全ての人間が自分と同じような簡素な生活を送るようになれば、盗みや強盗はなくなるとソローさんは言う。

こうした事件は、必要以上に物をもっている人間がいる一方、必要な物さえもっていない人間がいる社会でのみ起こるのである。(上巻 306頁 村)

確かにそうかもしれない。貧富の差があるからこそ、奪い合い、いがみ合いが発生する。自然の中に暮らしていれば悲劇は起きない。

ローさんは、私たち人間の現代の営みについて、8割くらいが間違った認識だと述べている。しかも語り口は自信に満ちていて、これが故人でなかったら叩く人もたくさんいるような気がする。もちろんソローさんの哲学には古さを感じさせず現代に通じるものがあるが、もしかしたら当時は賛否両論があったかもしれない。そう思うと、今まっとうなことを言っているが少数意見故に批判されている人は、もしかしたら何十年か後には讃えられるのかもしれない。

の本を読んで、以前読んだ小説『ザリガニの鳴くところ』を思い出した。沼地に住む少女の物語。これはよい小説だったなぁ。 

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『日本の血脈』石井妙子/女性は強し

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『日本の血脈』石井妙子

文春文庫 2020.9.8読了

 

井妙子さんといえば、現東京都知事小池百合子さんを描いた『女帝 小池百合子』がベストセラーになった。それも、ちょうど都知事選のさなかだったからなおのこと話題となった。本作はその石井妙子さんが過去に『文芸春秋』に2年間に渡り連載した作品を加筆し再編集してまとめたものだ。

池百合子さんという時の人を題材にしたルポタージュなら話題にもなるし売れるだろうなと、私ごときが少しうがった見方をしていたのだけれど、石井さんの書くものは綿密な取材に基づいており、読みやすい文章、そして着眼点が鋭くなかなか面白かった。

載順ではないが10人の血脈に絡んだ人物の評伝が収められている。世襲と聞いて真っ先に思いつくのはやはり皇室だろう。それに政治家、芸能界、スポーツ界、花柳界など。まさにそれらの業界の話が多い。順に、小泉進次郎さん、香川照之さん、中島みゆきさん、堤康次郎さん、小沢一郎さん、谷垣禎一さん、オノ・ヨーコさん、小澤征爾さん、秋篠宮紀子妃、美智子皇后、そうそうたる顔ぶれだ。

の人物にゆかりのある土地を著者の石井さんが訪れ、その方に想いを馳せながら調査をすすめていく。ある時はインタビューし、そしてある時は文献を読み漁る。巻末に掲載されている参考文献の多いこと、多いこと。そして「血脈」をテーマにしているだけあり、全ての人物について少なくとも三世代の家系図が載せてある。

はり総裁選が間近ということもあり、元総理大臣小泉純一郎さんの息子であり現環境大臣小泉進次郎さんの話がすっと頭に入りやすい。特にこれが一つ目の章だったから、流れであっという間に読めた。小沢一郎さん、谷垣禎一さんの章でも思ったが、やはり政治家一族という血が通ってるのだなと。次の総裁選で総理に一番近いとされている菅官房長官には、そういう血脈はないらしい。

島みゆきさんが歌手になったのはこんな経緯があったとは。あの孤独な中にも深い熱がこもったような歌い方は、父親のことを思ってだったのか。みゆきさんの章を読んでからはずっと名曲『時代』が頭から離れず、リフレインしている。

れを読んで感じたのは、やはり男性よりも女性の方が強んだなぁということ。「強い」とは物理的な力ではない。精神的な強さというか、図太さというか。今とは違って男性を陰で支えることが多かった時代ですら、影響力があるのはやはり女性で、そういう強さをしたためた女性がいてこそ、近くにいる男性は輝くのだ。