『悲の器』高橋和巳
河出文庫 2021.3.13読了
39歳で早逝された天才作家高橋和巳さんを皆さんご存知だろうか。私は今まで彼の作品を読んだことがなかった。そのことを悔やみつつも、今回読んで本当に良かった。この『悲の器』を読むと著者高橋さんのすごさがわかる。
本当は『邪宗門』を読むつもりが、いきつけの書店に在庫がなく、この『悲の器』があった。どうやらデビュー作であり、いま注目の文藝賞を第1回で受賞されている。これもいいきっかけだと思いまずは本書を読んでみた。
大学教授である主人公正木典膳(まさきてんぜん)は、妻静江が病床に伏せている時に、家政婦米山みきを雇う。みきとの関係は、雇う側と使用人の関係に留まらなくなる。静江の死後もそんな関係が続いていたが、正木は年若い令嬢栗谷清子との再婚を発表する。みきは損害賠償請求で正木を告訴、正木は名誉毀損で告訴する。
冒頭でこの小説の筋書きは記されている。正木が過ちを犯した経緯や過去の出来事を徐々に振り返りながら、一方で訴訟の行方が同時進行で語られていく。老齢に差し掛かるエリート正木の転落の告白である。終始正木の苦悩とその中にある正当性のようなものが語られる。
単なる不倫の物語ではない。むしろ戦中の思想統制や戦後の法統制について論じている部分がかなりの文量を占めている。著者高橋本人が体験した学園紛争からも影響を受けているようだ。転落・自滅の物語であるのに、正木はそれをどこかしら俯瞰しており、ある種悲劇のヒーローのように自らを感じているようだ。
三島作品ほどの淫靡さはないが、高橋さんの文章を読んでいるとどこか三島さんの筆致を感じるときがあった。時代背景もさることながら、政治的側面があるからだろうか。同時代を生きた高橋さんと三島さんは、実際に交流もあったようだ。
現代の作家の腕が衰えたとは全く思わないし、それぞれの時代に合った作家が生まれてくるのだと思う。しかし、昔の(とりわけ昭和初期)作家は知識量と文章の厚みが半端ないなと感じる。高橋さんにいたっては、読みながらお腹いっぱいになりそうで、文章から圧がかかるような熱が籠っている。理屈っぽいものが好きな人にとってはたまらないだろう。
この作品が高橋さんの初めての小説で、公募の文藝賞を受賞し文壇デビューした。書いた頃は20代後半だったと言うから驚きだ。正直時間のかかる長い小説である。もっと削ったほうが作品としてまとまりがあるようにも思えてしまう。それでも私は好きだ。名作と名高い『邪宗門』や『憂鬱なる党派』も読むつもりである。
今の令和の時代に高橋和巳さんの作品を読んでいる人は日本中でわずかではなかろうか。宇佐見りんさんの推しで中上健次さんの本が読まれているように、誰か著名人に推して欲しい。廃れさせてはいけない日本文学作家の1人である。奥様で作家であった高橋たか子さんの作品もこうなると読んでみたくなる。