書に耽る猿たち

読んだ本の感想、本の紹介、本にまつわる話

『螢川・泥の河』宮本輝|のちの大作へとつながる

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『螢川・泥の河』宮本輝

新潮文庫 2021.9.29読了

 

日、宮本輝さんの大河大作『流転の海』全9部作を読み、えらく感動した。まだ川三部作を読んでいなかったので、この機会に読むことにした。全てが1冊にまとまったものがちくま文庫から刊行されていたのを知らずに、新潮文庫で(いささかやられた感)。『流転の海』同様に宮本さんの自伝的作品ということが頷けて、重なる場面も多かった。

 

『泥の河』

太宰治賞を受賞された宮本さんのデビュー作である。作品自体は地味で、まさしく泥のようなどんよりしたイメージを残すが、少年の日の移ろいゆく感情、気持ちと行動が一致しないどうにも説明がつかない言動をうまく描いた小説だった。

大阪のある土地、3つの川が混じり合うところにいくつかの橋が架かっている。その川周辺に住む人たちの日常と、8歳の少年信雄(のぶお)が感じる思い。『流転の海』を彷彿とさせる水辺の暮らし。船で暮らす流浪の家族もいる。そして主人公はのぶちゃん(信雄)。流転の海で宮本輝さん自身を投影した伸仁(のぶひと)に名前も似ている。

信雄は船に住むきいちゃん(喜一)と仲良くなるが、住む世界が異なる2人は離れてしまう。たゆたう船と一緒できいちゃん家族も一つの地に留まらない。子供は何も悪くないのに、大人はいい加減自分のことばかり考えるなよと思う。

泥の中から沙蚕(ごかい)を掬い上げて売っている老人がいた。沙蚕ってなんだろうと思ったら、釣りの餌のことなんだ。釣りに詳しくないから知らなかった。

 

『螢川』

こちらは『泥の河』の翌年に芥川賞を受賞された作品である。もはや『流転の海』を読んでいるかのようだった。もしかしたら、この作品で書ききれなかった強い想いが当時からあり、のちの大作執筆に繋がったのかもしれない。

竜夫の思春期の身体と精神のありようと、両親である千代と重竜の関係性が短い作品の中で息づいている。舞台は雪深い富山である。まさに流転の海の伸仁、房江と熊吾をみているようだった。以前なかにし礼さんの『夜の歌』を読んだ時に、過去の作品の類似性を感じ複雑な心境になったものだが、何故か宮本さんの作品ではそういう風には感じなかった。

螢の大群の場面は圧巻であった。大自然と人間の営みはもしかしたら同じなのかもしれないと思った。ラストの千代が見たものは一体何だったのか。自分の中にある気持ちが幻影となり現れたのだろうか。

 

ちらも名だたる文学賞を受賞されているだけあり、名作である。地味ではあるが魂にずどんと響く。『流転の海』は長すぎて挑戦するのに思いあぐねている人がいたら、まずはこれを読むのがいいかも。読んで気に入ったら是非『流転の海』を。本に収録されている順番も時系列も『泥の河』が先なのに、この文庫本のタイトルが『螢川・泥の河』になってるのが少し疑問だ。

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『木曜殺人クラブ』リチャード・オスマン|彩りに満ちた老探偵たちとともに

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『木曜殺人クラブ』リチャード・オスマン 羽田詩津子/訳 ★★

ハヤカワポケットミステリー 2021.9.27読了

 

の小説、刊行前から結構話題になっていたので、私も気になってついつい購入した。アガサ・クリスティー著『火曜殺人クラブ』はまだ未読だけれど、ミス・マープルものは2冊読んでいて、人生経験豊かな老婦人探偵の雰囲気はなんとなくわかる。

れが著者の小説デビュー作とは信じられないほど上手い。前評判がいいと、期待し過ぎてがっかりなんてこともよくあるのだけど、すこぶるおもしろかった!ミステリの謎解き自体よりも、私はこの構成や文学的センスにうっとりしたのだ。こういうの、読みたかったんだよなぁ。

福な人達が居住する「クーパーズ・チェイス」という高齢者施設がある。そこに「木曜殺人クラブ」という木曜の黄昏時に会合をする探偵クラブがある。メンバーは、クラブの中心人物エリザベス、元看護師ジョイス、元々労働運動家ロン、元精神科医イブラヒムの4人だ。

解決事件の推理をして楽しむ探偵気取りのお茶会をしていたら、現実に殺人事件が起こってしまう。これは私たちにうってつけじゃないか!と調査に乗り出す、というこんな話。

、あらすじのさわりだけ書くとどこにでもありそうなミステリなのだが、読めばこのおもしろさにどっぷり浸かれるはず。基本は三人称で語られるのに、ところどころでジョイスの日記が挿入されている。これがなんともチャーミングで微笑ましい。誰に向けて書いてるの?って思いながら、ユーモアたっぷりの語りに笑みをこぼし、彼女らの巧みな推理と行動を楽しく眺める。

齢者ばかりだから、みんなそれぞれの過去がある。大切な人との別れや、秘めたる想い、哀しみ、そして何より愛が溢れている。関わる人たちのエピソードの繋がり具合にはっとおののき、誰かを大事に思う気持ちがこんなに充足感をもたらすとは。なんだかミステリ小説の感想っぽくないけど。登場人物の1人、大好きなクリス警部には幸せになって欲しいと願う。

んな、きっと80歳前後のお婆ちゃんお爺ちゃんなのに、そうは思えないほどの陽気でパワーに満ち生き生きとした姿。歳をとってもこんな風に過ごせたら幸せだなぁと思う。

ケミスなのに珍しく表紙が付いており装幀もかわいい。ただ、いつものビニールカバーが付いていないのが残念。どうして…?ポケミスといえば、この長細くしっくりくる大きさ、黄色い紙、そしてビニールカバーの特別感があってわくわくするのに。でもまぁなんにせよ、ポケミスは持っているだけで気分は上々。

リスティー作品が好きな人はドンピシャだと思うし、また英国探偵ものに喉から手が出る人は楽しめるはず。クリスティー作品の翻訳も手掛けている羽田さんの訳もこなれている。そして、なんとすでに続編が決まっているようだ。邦訳は随分先になるだろうが、楽しみに待つことにしよう。エリザベスにはまだまだ謎がありそうで気になる。今回のストーリーと交差する場面もありそうで今からわくわくする。

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『満潮の時刻』遠藤周作|入院生活でみえてくるもの

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『満潮の時刻』遠藤周作

新潮文庫 2021.9.24読了

 

しぶりに遠藤周作さんの小説を読んだ。この作品は没後2年してから上梓されたようで、長編であるのにあまり有名ではない。作品の中にある欠点(時間経過がそぐわない箇所がある等の違和感程度)を補ってから単行本にしたいという思いがあったそうだが、仕事に忙殺され及ばなかったようだ。

学校の同窓会に参加した40歳の明石は、2次会で喀血してしまう。病院に行った結果、1〜1.5年の入院生活を余儀なくされた。明石は肋膜炎の影響で徴兵を免れた過去があり、それをどこか後ろめたく感じている。その時戦地に赴かなかった自分がここにきて辛い日々を送ることになったと、ある意味自身で納得をするのだ。

島由紀夫さんが身体が弱かったために同じく徴兵を免れ、それが常に心の重しになっていたことを思い出した。当時は「お国のため」「天皇のため」に自ら戦うことが崇められた時代だったから、徴兵に行かなかった人はどこかでそのような想いを抱くのだろう。

直、この小説を読んでいると病人になったようでどんどん気持ちが沈み暗くなってしまった。病院という閉塞された空間、死にゆく人々、別れを惜しむ連れ合い、そうしたものが日常となる中で、明石はモノの見方を変えていく。私も手術・入院の経験が一度ある。短い期間でも、確かに入院中に見える景色や想いは普通とは違ったし、退院後は自身が一皮剥けたような心持ちがしたものだ。

藤周作さんは37歳の時に結核のため長期療養を体験した。3度の手術経験も明石と同じである。そこで見てきたもの、感じたことをこの小説で表現しており「人生においての経験に無駄なことは何ひとつとしてない」という心理を見出したのだ。キリスト教の洗礼を受けた遠藤さんらしく、信仰も重要なテーマになっていた。

『トム・ソーヤーの冒険』マーク・トウェイン|子どもの心と行動

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トム・ソーヤーの冒険マーク・トウェイン 土屋京子/訳

光文社古典新訳文庫 2021.9.23読了

 

もがこの少年の名前は知っているだろう。私は子供の頃に本を読んだことがあり、いかだに乗っているシーンとペンキ塗りのシーンだけは記憶にあった。

ムはいたずら好きでわんぱくでお調子もの。些細なことで笑い転げたり、飽きっぽかったり。好きな子に正直に「好き」だと言えるのは、子供ゆえだろう。人間はいつの間に何も言えない大人になってしまうんだろう。大人になるとはそういうことなんだけど。

かというとトムは良心の問題にぶち当たり、後悔したりポリーおばさんを心配する。いたずら心で悪いことをしても、しっかりと自分で反省するという行為。これはとても大切なことで、これをしてこなかったら本当の意味で悪人の大人になってしまうのかもしれない。

供向けに読みやすくしようとしてか、細かすぎるほど多くの章にわかれている。連作短編のイメージだったのだけど、続きもので長編小説だったのだなぁと改めて知る。

ックルベリー・フィンが颯爽と登場した。昔はハックのことなんて全然気にしていなかったしどんなふうに絡んでいたかなんて覚えていなかったけど、こんなに存在感があったとは。そもそも、この児童文学を読むきっかけは『ハックルベリー・フィンの冒険』を読みたかったからだ。

メリカでは誰もが(特に文豪が)『ハックルベリー〜』に影響を受けたというし、読もう読もうと前から思っていた。ただ、記憶が曖昧なのでちゃんと『トム・ソーヤー〜』から読み直したかった。揃って同じ訳者のもの、初めは柴田元幸さん訳を迷っていたが柴田さんのハックはまだ文庫本になっていないし、、と最近お気に入りの光文社古典新訳文庫に。

童向けの小説なのに、時折り格調高い雰囲気も感じられた。訳者の土屋さんによると、本来の原作はゴシック調で結構難易度が高い文体になっているらしい。世に出ている児童文学の訳は抄訳でやわらかく簡潔な表現になっているが、今回の訳はなるべく原文に忠実に訳されているから、大人でもちょうどよく楽しめるのである。挿絵も挿入されていて良い。『ハックルベリー〜』も近いうちに読むとしよう!

『君は永遠にそいつらより若い』津村記久子|もやもやとした大学生と社会人のはざま

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『君は永遠にそいつらより若い』津村記久子 ★

ちくま文庫 2021.9.20読了

 

かなか良いタイトルである。本谷有希子さんの作品にありそう。「そいつら」というのが特にいい。津村さんの小説はタイトルのセンスがひときわ抜きん出ていて、読む前から気になり手にとってしまう。この作品はちょうど今月から映画化されたので、津村さんのデビュー作で何年も前の作品にも関わらず書店に平積みされていた。

学4年生22歳のホリガイは、地元の地方公務員に就職が決まり、バイトをしながらだらだらと過ごしていた。処女であることを少しだけ気にしていて、また自分のことを少し変わっているとも思っている。男女関係なく友達はたくさんいて、人の話を聞くのが上手い女の子なのに、孤独を感じている。そんな時、イノギに出逢う。

もしろかった。ストーリーに引き込まれるというよりも気付いたら読み終えていたという感じ。ホリガイのもやもやとした心情が切ないようなわかるような。男性に興味はあるけど女性のことも気になる複雑な気持ちや、就職が決まった大学四年生の有り余る時間、大人とも学生ともいえない中途半端な時期についてなんともいえない際どさが描かれている。

章は淡々としており、冷静に日常や自己を分析をしている。なのにあったかい登場人物に愛おしさを感じる。時折りみせるシリアスさと狂気にハッとさせられる。

去に読んだ津村さんの作品と比べて一番好きだ。デビュー作だからか勢いを感じる。読後感は、川上未映子さんの『ヘヴン』や本谷有希子さんの『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』に似ている。思えばこの3人は年齢も近いかな。バックに漂う時代の空気感も似ている。

場人物のなかのイノギを映画で演じているのは女優の奈緒さん。NHKの朝ドラに出たことで有名になった方だ。先日「人生最高レストラン」というテレビ番組にゲスト出演されていた。笑顔が素敵で、素直で慎ましやかな語り口の奈緒さんを見ると応援したいと思えた。人との繋がりを大切にしていて、見返りも求めずに素直に相手を喜ばせるという姿勢にとても好感を持てた。彼女が演じるイノギを観てみたいなぁ。もちろんホリガイの心情をどう演じるのか、佐久間由衣さんも気になる。

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『はつ恋』ツルゲーネフ|初恋なのに冷静さがある

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『はつ恋』ツルゲーネフ 神西清/訳

新潮文庫 2021.9.19読了

 

説の中での初恋の相手は、ほぼ100%美男もしくは美女である。若い頃には内面から人をみることが出来ず、まずは外面から入るから仕方のないことだとは思うけれど、容姿が普通以下という場合がないのかしら…と思ってしまう。

実の世界ではそうとも限らないのに。スポーツマンだったり、クラスでお笑いキャラだったり、優しい話し相手だったりと、初恋の相手は美青年だけではない!と思うのだけれど、男性の初恋の相手は確実に美女だったりかわいい子な気がする。そういう意味では、人を見る目も女子の方がませているのかもしれない。

の作品に登場する16歳のヴラジーミル・ペトローヴィチは、隣に住む公爵の娘ジーノチカに一目惚れする。もちろん例に違わず絶世の美女であり、周りの男性たちも放っておかない。そしてジーノチカは誰にでも高飛車に振る舞い男をもてあそぶ。これもお決まり。

はかなり最初の方でこの恋の行方はどうなるのか(まぁ失恋するのはお決まりであるが)、ジーノチカの恋の相手は誰なのかがわかってしまった。だからストーリーとしてはお見通しだった。

かしヴラジーミルの普通でないところは、自分の独りよがりにならないところ。10代なんて自分の思い通りにいかないと、納得できずわがままに「何故好きになってくれないのか」と相手を問い詰めたり自暴自棄になるもの。それなのにヴラジーミルは初恋とは思えないほど冷静に、「ジーノチカもまた恋をしているのだから」とある意味悟るのである。これもお国柄なのか?

シアの文豪の一人、ツルゲーネフ氏の作品を読むのは初めてだ。奥付を見ると、令和元年10月で104刷とある。これだけの版を重ねて今もなお読まれているのは古典名作であるからだろう。ツルゲーネフ氏自身の自伝的小説であり、この体験は自身の恋愛観に呪縛のようにのしかかったようだ。

『流転の海』宮本輝|人間の宿命|なにがどうなろうと、たいしたことはありゃあせん

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『流転の海』第一部〜第九部 宮本輝 ★★

新潮文庫 2021.9.18読了

 

本輝さんの大河大作『流転の海』全9部作を読み終えた。単行本が都度刊行されている時から気になっていたが、あと少しと辛抱して文庫本が揃うまで待っていたのだ。今年の春、ようやく第九部『野の春』が刊行されたので一気読みした。

坂熊吾のなんという存在感か。下記では少しだけあらすじに触れているが、この大作をこれから読む方への妨げにはならないはずだ。

 

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『流転の海』第一部

終戦2年後の大阪の街。50歳になる松坂熊吾は事業を再建させようと奮起していた。その頃、なんと自分に子供が出来たのだ。50歳になって初めて出来た我が子に運命を感じ「20歳に育て上げるまでは生きよう」と誓い使命とする。

これから続く壮大な小説の幕開けに相応しく、この1巻だけでも十分に楽しめる。それにしても50歳という人生半ばをとうに過ぎた人物をここから長く続く主人公に据えたのが、このような大河作品にしては珍しいのではないか。

人間には不思議な星廻りがある。本人の努力だけでは抗えない宿命がある。熊吾の生き方もそうだが、妻の房江の人生もまたそうだ。

 

『地の星』流転の海 第二部

事業をたたみ、熊吾の故郷である愛媛の南宇和に帰った家族3人。身体の弱い妻子のために田舎の大自然の中で暮らす。地の星とは、生まれ故郷の夜空に浮かぶ星々のことだ。それにしても、宇和の方言は優しくて落ち着くなァし。

熊吾たち家族だけではない。この作品に登場する人物ひとりひとりの人物像が光っている。田舎にもその土地なりのいざこざや揉め事がある。悪人も熊吾と関わると、何故か良いところもあると思わせる。熊吾には、そんな魅力がある。

郷里で暮らすこの章からは熊吾の少年時代に起きたことなどが回想され、熊吾という人間の基本を作ったバックグラウンドがわかるようだ。

熊吾の話すこの言葉が印象に残った。「子供っちゅうのは、この世のなかで一番気にかかる他者じゃということになる」「人間として根本のところで心根がきれいじゃと、神さまが助けてくださる」

 

『血脈の火』流転の海 第三部

郷里から大阪に戻ってきた熊吾は、雀荘、中華料理店を始めとした多くの事業を手がけていく。50代後半になった熊吾ではあるが、なんと尽きない精力であることか。息子である伸仁は小学生に上がる頃で、この辺りから存在感を帯びてくる。

郷里から呼び寄せた熊吾の母親の失踪、台風による大被害、熊吾に忍び寄る病魔など、この一冊だけであらゆる苦難がおそいかかるが、熊吾の洞察力と機智で乗り越えていく。この巻は、なんだか生き急いでいる印象を受けた。

人の家の電話を借りる場面で、「市内だから安い」という会話を読んで、あぁそうだった。昔は市内など同じ区域であれば通話料が安かったんだよな〜としみじみ思いだしてしまった。

 

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『天の夜曲』流転の海 第四部

中華料理店が食中毒事件を起こし、杉野が脳溢血で倒れ、房江が更年期症状を訴える。熊吾ら家族は、富山に居を移すことになる。富山といえば、私も一度旅行で訪れたことがあるが、広大な自然と、何よりも新鮮な魚貝類の美味しさに舌鼓を打った。海鮮居酒屋で食べた時価のかんぱちは今まで食べたなかで最高の美味しさだったことが忘れられない。

私にとって良い思い出の富山だが、房江にとってはこの地はそうでもなかった。家族3人で富山に移ってすぐに熊吾だけが大阪に戻り、房江と伸仁だけの不安な暮らしをする一方、大阪で踊り子の女性と再開した熊吾は、運命に翻弄されていく。

悪い人相になる原因は「嫉妬」であると熊吾は言う。妬む気持ちは誰にでもあるが、それをどう抑えられるかが人相を変えてしまうのだという。確かに世の中の犯罪はほとんどが何らかの憎悪に絡むものだ。

 

『花の回廊』流転の海 第五部

ちょうどこの第五部が新刊として単行本で書店に並んでいるのを見て読みたいと思ったのを覚えている。当時の年齢で、遡って一部から読んでいたら、また今とは違った感想を抱いてたはずだ。それに、リアルタイムで新刊を待ち侘びるという幸せも味わえたのに。まぁ、本を読むタイミングも縁ものだから仕方ない。

熊吾夫婦とは離れて、尼崎にある貧民窟のような集合住宅「蘭月ビル」で叔母と過ごす伸仁。両親は不穏なこの建物と住人と関わり合いになることを心配するが、実は伸仁にとっては「花の回廊」になる。親と子では世界の見え方、接し方が違う。見える景色も想いも違うのだ。ノブ(伸仁)はここに住む1年間で、多くのものを吸収して大人になる。

熊吾は駐車場運営のために奔走し、房江は小料理屋で勤めをする。やがて富をなし家族で過ごせるようにと両親は各々が力を振り絞る。この巻では、仲睦まじい家族という印象はなく、それぞれが独立しているようだ。昭和の高度成長期がよくわかるような歴史背景も興味深い。

 

『慈雨の音』流転の海 第六部

大規模な駐車場経営をすることになり、管理人として住み込みで働く熊吾ら家族。ノブは中学生になり、より一層存在感を増す。

この巻では人との別れがいくつもあり、それが人間の生死というものについて考えさせられる。まさに慈しみ、慈愛に満ちたストーリーだ。

金魚、犬、鳩など伸仁が大事に育て上げる生き物との繋がりや接し方をみていると、子供の時に生き物を飼うという経験は大事だと思った。世話をするという営みが必ずや人への接し方を変える。

独学でペン習字を学ぶ房江をみていると、今でこそ当たり前のように読み書きができるのは義務教育があるからで、それを受けられない世代も存在したのだと改めて思う。男の子にも思春期に胸が膨らむことがあるというのも初めて知った。

 

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『満月の道』流転の海 第七部

駐車場経営とともに中古車販売にも精を出していた熊吾だが、いつしか暗雲が立ち込める。また、踊り子に再開したことで厄介なことに巻き込まれる。ノブは高校生になる。

ノブの高校の担任から「あの子には好きなことをさせておけばいい」と言われた房江は安心する。熊吾は、試験に役立ちそうもない「雑学」にたくさん触れるほうがいいと言う。「雑学を身につけずに学校の勉強ばかりしていい大学を卒業した人間は、世の中に出て、いざというときに役に立たない」まさに、その通りだ。

熊吾とノブが取っ組み合いをし、ついにノブには敵わないと悟った場面で、この親子は遂に対等になったのだと感じた。

何がそう思わせるのかわからないが、2〜3巻ほど前から、山崎豊子さんの作品を読んでいるような感覚になっている。大阪での商い、経済小説のような雰囲気からなのか。

 

『長流の畔』 流転の海 第八部

房江のことを思うと、同じ女性として辛くなる。だけど、房江がこんな風になるなんて思わなかった。芯が強くどこか余裕のある風格が脆くも崩れていく様をみて、気の毒で同情しているのに、どこかで房江ならもっとカッコよくどっしりと構えるはずなのにと。でも、これが女性たるものだ。

嫉妬深くなりふり構わず泣き喚き、熊吾を罵る。助けを求めてまだ高校生のノブに想いをぶつける。よく考えると、まだ17.8歳の子に大人の問題を押しかけるのは分不相応だろう。

「驚き」の後に「嫉妬」がきて、そのあとは「悲しみ」がくる。そして最後には「あきらめ」が来ると房江は気付く。あることを成すために城崎に行って、そのあとどうなったか。寝る前に読んでいて涙が流れた。この巻は間違いなく房江が主役である。あんなにカッコよかった熊吾がただのだらしないおっさんにみえてしまったのだ。

 

『野の春』流転の海 第九部

ついに、最終巻。熊吾の体調がどんどん悪くなり、老いが無惨にも襲いかかる。もうそろそろなのかと、このドラマも幕を閉じるのかとロス気分になる。しかし、それが人生たるもの、そして物語もいつかは終わるもの。

ノブの20歳のお誕生日会に、房江から熊吾に「ノブの20歳になるまでは死なない」という使命を果たしたお祝いとして、帽子をプレゼントする。この夫婦が号泣するこのシーンは名場面だ。語らずとも、2人の涙だけで充分だ。

最終話に相応しく、今までのエピソードが走馬灯のように駆け巡る。過去に登場した重要な人物が再度登場する。信じていた人なのに、最後の最後に裏切られることもまた宿命である。

熊吾がノブに大事な話をした場面以降は、涙が止まらなくなった。本当に心に沁み渡る良い小説だ。最後は心根の良い人間たちが熊吾のもとに集まりお別れをする。

 

 

この長い大河小説を読み終えて

い作品だったが、どっぷり浸かって堪能でき、充実した読書時間になった。途中、この本を読んでいる自分が夢にまで出てきたほど。力強く太く圧巻の作品である。

が生きていれば、色々なことが起きる。楽しいと思うことよりも、苦しく辛いことのほうが多いかもしれない。しかし1人の人間が経験できることはたかがしれている。私はこの小説を読み、自分の経験できないことをたくさん教わり、まるで一緒に生きてきたかのように感じたのだ。小説にはそんな力があることを久々に思い出した。

 

「なにがどうなろうと、たいしたことはありゃあせん」(熊吾語録のひとつ)

これを唱えていたら、きっと人生楽に歩んでいける気がする。

 

かにこれだけの長編は挑むのに躊躇するかもしれないが、一生に一度は読む価値がある。熊吾が発する言葉には名文、教示がたくさんあるのだ。私も死ぬまでに一度は再読するだろう。第一巻『流転の海』と最終巻『野の春』が圧巻だ。どの巻ももちろん素晴らしいのだが、個人的には南宇和を描いた第二巻『地の星』が心に残っている。また、中核をなす第五巻『花の回廊』も深く根を張るかのようだ。

イフワークとして長きに渡り書き続けてきたこの作品の存在は、宮本さんの作家冥利に尽きるだろう。あとがきで述べているように、書き終えたことに使命を果たせたと感じている。37年という長い歳月をかけていると、文体にも変化が出てくる。明らかに徐々に会話文が多くなり、万人に読みやすくなっている。  

本さんの執筆に合わせて37年かけてともに読んだ人は幸せだ。1巻出たら次の巻が出るまでに3回くらい読む。次の巻が出たらまたそれを繰り返す。これが贅沢な読み方だ。そして最後の9巻を読み終えた後、また初めから読み通した読者に私は羨望を抱く。

長編ということで五木寛之さんの『青春の門』や加賀乙彦さんの『永遠の都』を彷彿とさせる。松坂家族にともに昭和の時代とともに寄り添い生きる姿が力強く、また多くの登場人物の誰かには共感できる。読みやすさとおもしろさで分配が上がるだろう。さて、この勢いでプルースト著『失われた時を求めて』も挑戦できそうな気がしてきた。

 

こんなにブログの日数が空くのも初めてなので、いつの間にか本猿はいなくなったと思われたかもしれないが、ひっそりと長編小説に耽っていたのである。

 

『そして誰もいなくなった』アガサ・クリスティー|1番有名な作品

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そして誰もいなくなったアガサ・クリスティー 青木久惠/訳

ハヤカワ文庫 2021.9.4読了

 

リスティーさんの作品ではおそらく1番有名なのではないだろうか。例え読んだことがなくても、タイトルだけは知っているはずだ。各国で映画化ドラマ化され、オマージュ作品も数多い。タイトルだけでもオマージュされているイメージだ。

ももちろん読んだことがある。小さい頃にクリスティーさんを知って一番最初に読んだのがたぶんこの作品だ。このストーリー展開自体にまんまとはまって夢中になったけれど、細かい描写や文体はゆっくりと味わうことは子供のときにはできない。再読してどう思うのかも楽しみだった。

隊島という島に招待された人たち。執事も含めた10人は、童謡になぞらえて次々に死んでいく。果たして何が起こっているのか、最後に残る人物が犯人なのか-。

末がわかっていてもゾクゾクする展開で、切れ味鋭い文章が先へ先へと急かせるようだ。数十年経って読んでみて、今の私が欲する期待していた濃厚な文体はエピローグだけかな。ほとんどの人にとって読みやすく万人受けする作品になっている。

説で赤川次郎さんが述べているように、無駄のない文章で適度な文量(一晩でちょうど読み切れる)、ストーリーに恋愛が全く絡んでないのにおもしろく読めるというのが、本当にその通りだと思う。

リスティーさんのノンシリーズは2作読んだけれど、この『そして誰もいなくなった』は、“ザ・クリスティー”といえる作品。途中からポアロがひょっこりと登場しそうな雰囲気だ。ネットが張り巡らされれた現代ではありえない設定ではあるけれど、これを最初に考えたクリスティーさんには脱帽だし、『アクロイド殺し』とともに多くのパロディー・オマージュ作品があることは名作たる所以だろう。

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『生き物の死にざま』稲垣栄洋|自然界を懸命に生きる

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『生き物の死にざま』稲垣栄洋

草思社 2021.9.2読了

 

日、家の中に入り込んできた蚊を掃除機で吸い込んだ。なかなか叩くチャンスがなく(本当は潰したくないけど家にいるのが気になる)、天井付近にいたのをなんとか仕留めた。蚊は掃除機の中で息絶えると思うが、生命力が強い虫は生きのびること、体内で卵を繁殖する能力を持つ場合は、自身が死んだとしても子孫を残す、つまり掃除機内で繁殖すると知りゾッとしたものだ。

の科学エッセイには、生き物がどのように生きるのかそしてどんな死にざなのかが書かれている。虫や魚、動物など全部で29種類。挿入されたイラストもリアルなのにかわいらしく描かれていて、動植物の身体を視覚的にも理解できる。

でも興味深かったのが2つある。仰向けになって死の最期を待つ「セミ」は、よく考えたら空を見ているわけではない。目は地面の方を向いているのである。死んだと思ったら突然羽ばたくのが不気味だからあまり近寄らないようにしていたが、この儚い最期を知ると、もう少し優しく見守ろうかという気になる。

う1つが、老化現象のない「ハダカデバネズミ」である。老いて死ぬ、という当たり前の現象がこのネズミには当てはまらないというなんとも奇妙な生き物だ。何かのアクシデントで死ぬという場合を除き、生き物は老衰するものかと思っていた常識を打ち砕かれた。

に向かう姿や懸命に生きる姿が、時にはユーモラスに、しかし哀愁を帯びた語り口によりしんみりとなる。私たち人間が我が物顔で地球にのさばっているけれど、実はちっぽけな存在であり、自然界にはたくさんの生き物がいる。そして、常に弱肉強食なのだと改めて思い知る。

れを読んでいると、子供の頃に夢中になった『シートン動物記』や『ファーブル昆虫記』が読みたくなってきた。内容はほぼ忘れているから、これを機会に読むのもいいかもしれない。

うそう、蚊についての記述といえば、家の中に入ってくる蚊「アカイエカ(赤家蚊)」、まさに今回掃除機に吸い込んだ蚊についての章があったのだ。人の血を吸うのはメスだけであるようで、我が子のための栄養分としてタンパク質が必要らしい。なんとかして家に忍び込み、命懸けで血を吸い、さらなる難関である家の外に出るという行為を果たさなくてはならない。

イオン、アリ、蜜蜂もそうだが、エサを取りにいくなど働くのはメスであることが多い。やはり、自然界でも女のほうが強いんだなと思ったり。家の中で蚊を見つけてもなんとかして叩いて始末してしまいたいが、どうにか私が気付かないまま出ていってくれと少しばかり願う。

『トリニティ』窪美澄|何かを捨ててより良いものを拾って生きる

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『トリニティ』窪美澄 ★

新潮文庫 2021.9.1読了

 

リニティとは、キリスト教でいう三位一体のことだ。三角形に表してバランスを保つような図をたまに見るような気がする。昔仕事でトリニティをサブタイトルにした商品を売ったことを思い出した。この作品では、女性の生き方についてトリニティに当たるのは、仕事、結婚、男、子供、夢、何であるのかを問いかけている。

1960年代、ある出版社で出会う3人の女性。売れっ子ライターの登紀子、時代の寵児となるイラストレレーターの妙子、仕事より結婚を選ぶ出版社社員の鈴子。生きる目的も価値観も違う彼女たちが、どう思いどう生きたのか。窪さんの丁寧で細かな描写が存分に発揮され、情景が目の前に鮮やかに浮かび上がるようだ。

はこの小説は、鈴子の孫である奈帆が就職がうまくいかず鬱になりかけていたのを、登紀子から過去の話を聞きだすという設定になっている。昭和を生きた3人の女性が主人公ではあるが、現代パートである奈帆が成長する様からも勇気と希望がもらえる。

1968年10月21日国際反戦デーの日に、新宿でデモ隊が決起集会を行うことになり、妙子、登紀子、鈴子の3人は見物に行く。そこで学生に発砲する機動隊やゲバ棒を持って破壊する学生たちを目にする。騒乱の中危険すれすれのところにいたけれど、大声で思い切り叫び高揚し、キラキラ輝いていた3人。この瞬間に3人の絆が深まったのだろう。

中で登紀子が三島由紀夫批判をする部分がある。この時代に女性がこう発言することすらなかなか難しかったろう。三島由紀夫さんを始めとし、安保闘争全共闘運動、浅間山荘立て籠り事件など、昭和に起きた実際の出来事をなぞるようにして物語は進み彼女たちも歳を重ねる。  

ョルジュ・サンドとショパンの話が出てきたところで平野啓一郎さんの『葬送』を思い出した。平野さんの作品で唯一読みきれず途中で断念したから逆に記憶に残っている。そろそろ再読してみようか。音楽といえば、ベートーベンを題材にしたロマン著『ジャン・クリストフ』も読まないと。

生で全てを手に入れたいといっても、その人にとって何が幸せなんてわからない。なんの不自由もなく人生を謳歌しているように見えても、自ら命を絶つ人もいる。死ぬ間際になって、自らの人生を「良い人生だった」と思うことが出来れば、その人にとって幸せなのだ。

局、全てを手に入れることは難しい。手に入れるためには何かを犠牲にしたり捨てなくてはいけないから。生きていくってそういうことなんだろうと思った。何かを捨てないとより良いものを拾えない。

窪美澄さんの本を始めて読み、その小説は結構軽めというか楽に読めたから、今回もそんな感じだろうと思っていたら、、濃厚な話にかなりどっぷりと浸かってしまった。さすが直木賞候補に選ばれただけあって、骨太な印象を受ける。

験していなくともほとんどの女性が感じることがこの小説には書かれている。共感することも多いだろうし、疑問や反発する人もいるだろう。何にせよ生き方についてじっくり考えさせられる。この小説は事実を元にしたフィクションで、妙子のモデルは大橋歩さんというイラストレーターとのことらしい。なんだか気になる!

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