書に耽る猿たち

読んだ本の感想、本の紹介、本にまつわる話

『優しい暴力の時代』チョン・イヒョン|何かと折り合いをつけていくのが生きるということ

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『優しい暴力の時代』チョン・イヒョン 斎藤真理子/訳

河出書房新社河出文庫] 2024.03.13読了

 

紙のイラスト、家の洗面台そっくりなんですよね…。これになんだか親近感が湧いてしまう。それに斎藤真理子さんが訳してる!と思ってついつい手に取った。でもこの洗面台の棚、左側にしかモノが置かれていないのがちょっと気になる。精神的になのか肉体的になのか、所有者に偏ったものがあるのだろうか。韓国文学は定期的にというか、思い出した頃に読んでいる感じ。そろそろ読むタイミングみたいだ。

 

国で刊行された『優しい暴力の時代』という短篇集に、もう1作『三豊(サムブン)百貨店』を収めた日本独自の短篇集になっている。どの作品も味わい深く愛おしい。好みの文体であった。それぞれの登場人物なりの矛盾と悩みを解き放つために、何かを手放し代わりに他の何かを手に入れるような物語だ。

 

に気に入ったのは『ずうっと、夏』である。小さい頃から大きな身体で、学校のみんなに「ブタ」と呼ばれたリエの物語。リエは日本人の父、韓国人の母を持ち、父親の仕事の関係で色んな国を転々とする。Kという国で出逢ったメイとの愛しくも複雑な関係。南北問題と友達関係について痛切に考えさせられる。リエは、家族間での通訳の本質、それはつまり「相手に信じさせること」だと言う。ついてもいい嘘があるのと同じように、相手を和ませるための訳し方もあるのだ。

 

  

「優しい暴力」ってよく考えたらすごい言葉だなと思う。肉体的な「暴力」であれば、された側についてはきっと多くの人から同情され優しい言葉をかけられるのだと思う。しかし「優しい暴力」は、誰からも気付かれない、当の本人しか感じ得ない無言の精神的な圧力だ。何かを奪われたり失ったり、自分の中にあるバランスを崩しながらも合わせていく。生きていくということは、そんな風に何かと折り合いをつけていかないとならないことなのだ。昨今よく問題になっている『教育虐待』もそんなようなものかもしれない。

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『二人キリ』村山由佳|みんな大好き阿部定の生き方

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『二人キリ』村山由佳 ★

集英社 2024.03.11読了

 

こ半年以内に、NHK松嶋菜々子さんがプレゼンテーター役をしている番組で、阿部定事件のことが放映されているのを見た。昔世間を騒がせた事件だが、不思議と阿部定に同情を寄せたり敬する声も多い。こんなにも情熱的になれるのか、自分もこんなふうに愛し愛されたい、と思うからか。捕まって刑期を終えてからはずっとなりを潜めていた定さんが、高齢になってから身を明かし、料理屋をやっていたのは知らなかった。

 

山由佳さんが書いた伊藤野枝の評伝『風よあらしよ』がとてもおもしろかったので、この作品も期待して読んだ。前作よりもフィクション感が強めだったけれど、夢中になった。寝る間を惜しんで、とか、隙があったらなんとしても読み耽りたい、みたいになる小説って実はそんなに多くないのだけれど、これはまさしくその境地になれたのだ。ちょっと寝不足気味になるほど。

 

料理屋「若竹」を営む阿部定は60歳を過ぎていたがなお色香漂うオーラがある。縁者であるという波多野吉弥(はたのきちや)という脚本家の男性が訪ねてきて、阿部定の真実を本に書いてみたいと言う。すでに定に関係のある多くの人物から話を聞きそれをまとめていた吉弥だが、本人から、誰にも明かされていない真実を聞きたいと切に願う。

 

東大震災、地震が起きたまさにその時には秋葉の上に乗って腰を振っていたから地震に気づかなかった(186頁)とか、どうしても軀が寂しい時だけは気安く関係する相手もいたけど、そんなの按摩を呼ぶのと変わらない(324頁)とか、定のぶっとんだ感覚に時には笑い、時には憐れみを覚える。

 

間誰しも、人よりも少しだけ得意なことはある。内容は人それぞれだ。料理が上手い人、気が利く人、運動神経が良い人、人をまとめるのが上手い人。飛び抜けた才能がある人もいる。物理や化学で天才的な頭脳を持ったオッペンハイマー、類い稀なる絵画の才能を持つピカソゴッホ、音楽ではモーツァルトやベートーベン。

 

れを読んで思ったのが、定は性の営み、異性を愛し愛されるという才能が抜きん出ていたというだけではないか。人間の持つ3大欲求、食欲、睡眠欲、性欲。そのなかのものが抜きんでているのは、才能とは呼べないのだろうか。何故だろう。職業にはらないからだろうか。

 

み終わると猥褻さが否めないというか、なかなかの破廉恥表現も多かったけれど、それが読書スピードを早めたのかななんて。みんなこういう本好きだよね。それに村山由佳さんももともとこういうのを得意にしていたから、腕がしなっただろうなぁ。

 

を売る仕事をした人の転落の人生みたいな作品は数多く存在するが、阿部定の事件以降に書かれたものは、この事件をモチーフにしているんだろうなと思う。しかし転落の人生と傍目には映るかもしれないが、本人達にとってはそれはそれは幸福だったのだ。それに永遠に「二人キリ」でいられるのだから。

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『御社のチャラ男』絲山秋子|日本の会社ってこんなだよな

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『御社のチャラ男』絲山秋子

講談社講談社文庫] 2024.03.09読了

 

谷翔平選手の話題で持ちきりの毎日である。彼の好みの女性のタイプに「チャラチャラしていない人」というのがあるらしい。マスコミが言ってるだけかもしれないけれど。「チャラい」っていうのはここ30~40年くらいで浸透した言葉だろうか。

 

リエンタルラジオの藤森さんがその筆頭かなと思う。彼はキャラクターにしているだけだけど。この本で書かれるチャラ男は、私が想像していたようないわゆる軽薄な「チャラ男」とは少し違っていた。

 

方にあるジョルジュ食品という小さな会社が舞台である。三芳部長(彼が「チャラ男」と呼ばれている)を中心にして、彼に関わる人がそれぞれ独白をしていくという構成だ。チャラ男は見た目が良く、世渡りが上手い。でも、決して悪いところばかりじゃない。「こういう人いるよな」「意外に憎めないよな」と思い、そもそもこの本に書かれているのは、どこにでもある会社組織、そして社会の縮図なんだと気付く。

 

り手が多くて、正直なところ途中少しだらけてしまった感があったけれど、最終章ではひとかたまりにまとまった感じがして、意外にもすっきりとした心待ちになった。自分もそうだけど、やっぱ日本の会社員ってこういうイメージなんだよな、「トホホ」という情けないような気持ちになってしまう。本心ではこういう働き方をしたくないのに、会社に属すということは自分を多少殺してしまうということなんだよなぁ…。

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『タスマニア』パオロ・ジョルダーノ|戦争と原爆、今この本を読む意義と運命

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タスマニア』パオロ・ジョルダーノ 飯田亮介/訳 ★

早川書房 2024.03.07読了

 

近どうも広島や長崎、つまり戦争や原爆にまつわる書物をよく目にするし、自分でもおのずと選んでしまっている気がする。それだけ心の奥底で意識しているということだろうか。この『タスマニア』は、敬愛する作家の一人、パオロ・ジョルダーノさんの作品だから読んだのだが、原爆のことが主題として私にのしかかる。

 

かも、広島への原爆投下について結構な分量が割かれているのだ。アメリカ人が書いた伝記にはほとんどなかったのに、イタリア人が書いたこの本には、原爆投下後の凄まじさがありありと書かれていた。身体から垂れる皮膚、白い火傷痕、理解不能な症状、そして黒い雨。第二章では長崎の投下についても。千羽鶴のくだりでは、平和記念公園にたくさんあった千羽鶴を思い出した。『オッペンハイマー』で、こういうことが書いてあるんじゃないかと予想したようなことが、この本にあったのである。ジョルダーノさんは原爆を通して何を伝えようとしているのだろう。

 

「原子爆弾が完成したのならば、それをどこかに落とさねばならなかった」そして「経済的にも知的にも甚大な努力を重ねてきたのだから、最初のふたつの原爆投下は最大限の破壊をもたらし、世界を仰天させねばならなかった」のだという。多大な費用と時間と労力をかけて作ったロケットは飛ばさなくてはならないのというのと似ているのかもしれない。「これだけやったんだから実行しないと意味がない」というのは日常でも多くあって、その極みがこの原子爆弾なのだと思う。

 

爆を投下したアメリカと投下された日本だけに意識が行きがちだが、第三者的な国の人からみる戦争と核兵器についての想いが赤裸々に語られていて、地球規模でみたこの世界を意識せざるを得ない。人間一人って本当にちっぽけで頼りない。だから大きなパワーがあるものに惹かれてしまうのだろう。それが破壊する力を持った兵器であっても。

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庭問題、要は妻との関係がうまくいかない「僕」は、それを改善できないまま、地球の環境問題の取材のためにパリに向かう。作家としても、原爆についての本を執筆しようとするが進まない。「僕」はパリ、ローマなど多くの地に移り住み友人たちと関わりあう。この作品にはその数年の出来事と想いが書かれている。

  

ョルダーノさんの思考回路が、その文体のリズムがとても心地良い。公園で「どれだけ敏捷かを競う遊びをしている三人の少女」を見て僕が思うシーンであったり。途中、なんとなくジョゼ・サラマーゴの作品を読んでいるような既読感になった。それはもはや人間の魂をゆさぶる壮大なもの。そのうちジョルダーノさん、ノーベル文学賞を取るんじゃないかと想像してしまう。

 

人のジュリオは「今の世界情勢を見ていると、誰でも自分のプランBを用意しておくべきだと俺は思う」と言う。そういえば、あるプロ野球球団の元監督で優勝の可能性がなくなったときに「プランBでいく」と答えていた。そのBプランで結果的にうまくいった。最初から想定したプランを用意しておくことも重要だ。生きるということはまた闘いでもあるのだから。

 

史ものや近未来小説、ファンタジーがよく読まれているように、小説という形で書かれたものはいつどんな時代でも読むことができる。読むことができるというのは、名作であれば読んでおもしろい、タメになる、感動すると思えること。しかしエッセイはなかなかそうもいかない場合がある。色褪せてしまうというと語弊があるかもしれないが、その時に読まないとわからない凄みがある。だからこの本は絶対に今読まれなくてはならないのだ。

 

み終わってから表紙のイラストを見ると複雑な気持ちになった。たぶんこの表紙だけ見ると、綺麗な空だなとかそういう良いイメージしか持たないと思うのだ。でも読んだ後は「あのことだったんだ」とその意味するものがわかるから、胸をぎゅうっと掴まれたみたいになる。冒頭でも述べたが、私にとって今読むべきものとして手に取ったのだと、大袈裟かもしれないが運命的なものを感じた。

 

訳されているジョルダーノさんの小説は2冊読んでいる(どちらも傑作)が、一番売れているエッセイ『コロナの時代の僕ら』は実は未読だ。本作『タスマニア』がオートフィクションだということは早川書房の宣伝文句にあり目にしていたから、本当は『コロナ〜』を先に読めばよかったかと心配だったが杞憂だった。中ほどに出てくる「リョウスケ」というのが終わりの方で訳者の飯田さんであることに気付き笑みが生まれる。ジョルダーノさんの作品を読んだことがない人には、是非この作品を一番にすすめたい。とてもとても良かった。それから、ジョルダーノさん、原爆についての本はもう書き上げたのだろうか。早く読みたい。

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『フランス革命の女たち 激動の時代を生きた11人の物語』池田理代子|ベルばらを読みたくなってきた

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フランス革命の女たち 激動の時代を生きた11人の物語』池田理代子

新潮社[新潮文庫] 2024.03.04読了

 

供の頃大好きだった漫画の一つが『ベルサイユのばら』である。女子はたいていハマっていた。文庫本の表紙にある、奮い立つオスカルとそれを守ろうとするかのようなアンドレの姿を久しぶりに見て、ベルばらを思い出した。あの漫画は本当に名作だ。フランス革命のことも、ベルばらから学んだようなもの。

 

の本はベルばらの著者池田理代子さんが、マリー・アントワネットらの有名どころの人物はもちろん、フランス革命の激動の時代を生きた女性たちにクローズアップして書いた本だ。それぞれの肖像画や当時を描いた絵画がふんだんに掲載されていて、それを見るだけでもなんとも高貴な気分になれる。

 

ぉ、デュ・パリー夫人!この名前にどうも嫌悪感を感じてしまうのはベルばらで結構最初の方に登場して、いけすかない奴だったイメージがあるから。国王ですら宮廷婦人たちと情事を重ね、何人もの愛人が当たり前にいた時代。今であればちょっと考えられないが、そんな恋愛風俗の時代だったのだ。その国王(ここではルイ十五世)の愛人のなかでも「寵姫(ちょうき)」と呼ばれ王族や全宮廷に正式に認められた存在になったのがこのデュ・パリ―夫人(元々はあのポンパドール夫人がその座にいたそう)。高級娼婦から成り上がり、国王から誰よりも大切にされていたが、民衆からの批判が高まり最後はギロチン刑に…。一人の人に愛されるだけではいけないんだなと思った次第。でも歴史的にこういう人物がいたということはおもしろい。

 

妃のお抱えの肖像画家であったヴィジェ=ルブラン夫人や、アントワネットの娘マリー・テレーズの数奇な運命もまた読みごたえあった。それにしてもこの時代、女性たちがいかに底辺に追いやられていたことか。

 

の本は池田さんが書いているから読んだけど、やはり漫画の方が全然おもしろいなぁ。『ベルサイユのばら』を全巻通して読み直したくなってきた。歴史フィクションに絡めてオスカル、アンドレというキャラクターを際立たせたのは本当に素晴らしいと思う。

『ミトンとふびん』吉本ばなな|さぁ、旅に出ようか

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『ミトンとふびん』吉本ばなな

幻冬舎幻冬舎文庫] 2024.03.03読了

 

の本、単行本のサイズが特殊だったのと表紙の色が鮮やかだったから、書店でかなり目立っていた。ちょうど永井みみさんの『ミシンと金魚』が並べられていて、タイトルが少し似ているからごちゃまぜになっていた。「ミシンとふびん」だっけ、とか「ミントがなんとか」だっけ、とか…。意外とそういうことが記憶に残るものだ。

 

月の新刊文庫本として積み上げられていたから思わず手に取る。さらっと読めるし、今かな、と(この本の前に『オッペンハイマー』を読んでいたから若干疲れ気味なのよね)。やはり、ばななさんの文章は日常に佇むほんのりとした幸せと懐かしみがある。なんでもない日々を描いた6つの短編が収められていて、ここに出てくる登場人物たちはみな何かを喪失しており、生活圏外の場所に身体を委ねる。それは旅であったり、誰かの実家であったり。

 

かと暮らすということの比喩がとても良い。「青海苔が細かく散ったその人のTシャツをひたすら手で洗ったり」「風呂に入ろうとすでに半裸になっていたのに、なかなか彼が風呂から出てこないで風呂の中で歌まで歌っていたりするのを、なにか羽織りなおして待っていたり」することだと言う。ヘルシンキに新婚旅行に行った2人は、レストランで出会った見知らぬ老夫婦からお菓子を貰い、かけがえのない言葉をかけられる。近しい人からでなくても、自分にとって元気づけられる勇気とギフトはもらえる。だから私も普段から周りの人を見て何かあれば声をかけたいと思った。声でなくても視線だけでも伝わる場合もある。『ミトンとふびん』はそんなようなお話だ。

 

なり合う部分は母娘という設定だけなのに、2作目の『SINSIN AND THE MOUSE』には共感度が高くて所々で目が涙で滲む。主人公のちづみは、世界がみんな新しく見えるのは「勢いよく輝いているのではない。しみじみと美しい色彩がしみてくる感じだった(36頁)」からだという。キラキラ光るわけではなくても、じっくりと浮かんでくる輝き。それは見た目だけではない、しみじみと気付く幸せと似ている。私は表題作よりこの作品の方が好きだ。

 

れを読んで、一人旅がしたくなった。近場でもいいから、日常から離れた景色を見て、その土地に住む初めて会う他人と他愛もない会話をしたい。そうして、自分の日常について思いを馳せようか。

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村上春樹×川上未映子「春のみみずく朗読会」に行ってきた

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先週のことになるが、3月1日(金)に、早稲田大学大隈記念講堂にて開催された「村上春樹×川上未映子 春のみみずく朗読会」に行ってきた。おそらく、私の書に耽る関連では今年のメインイベントの一つになるであろう。

 

早稲田大学国際文学館(村上春樹ライブラリー)に基金をするという形で開催されたイベントである。1/15にサイトを開いてちょっと悩んだけど、たぶんこれを逃すと、特に村上春樹さんに生で会えることは二度とないかもしれないと思い、えいっと決断してポチリ。一般の先着は700人とかだったからうかうかしていたらすぐ埋まっちゃったと思う。

 

実はオーディオブックとかは苦手(というか、オーディブルとか聴いたことないし、聞かず嫌いかも。自分のペースで字を追いたいしちょっとどうかなぁ…と)な傾向だった。だから、トークイベントは良いけど朗読会は微妙だなと思っていた。しかし、、、これがとても良かったのだ。いや~、行って本当に良かった。

 

イアホンではなく生でライブ演奏を聴くような、テレビではなく球場でプロ野球の試合を観るような、そんな生ならではの一体感を感じられた貴重な体験だった。本来小説を読むのって1人でできるし、わざわざ足を運んで聴くほどのものでも…。それにせっかくの舞台なのに演じる人も大道具もなくてもったいない、みたいに思っていたのだけれど。でも、そもそもその小説が主役なんだ。そして、それを声に出して語る人が俳優であって、それでもう一つの作品となる。この時の語りは一度だけ、唯一無二のもの。来た人にしか味わえない極上の贅沢。

 

なんというか、語りでしかなし得ないその場の臨場感、この会場だけの連帯感みたいなものが感じられて、ちょっと鳥肌が立ったのだ。聞き漏らさないようにしないと、と気持ちを張り詰めて力が入るかなと思ったけれど、静謐で清らかな空気感のせいか自然体でいられた。この大熊講堂ならではの荘厳さもあるかもしれない。

 

春樹さんと未映子さんの書き下ろし新作短編を、世界で初めて読めた(聞けた)ということがここに来た人への何よりのギフトだったと思う。川上さんの作品もらしくて良かったが、特に村上さんの『夏帆(かほ)』はめちゃくちゃに良かった。時事的にも、今読まれるべきストーリーだなと思う。そのうち短編集に入るか文芸誌に掲載されるだろう。朗読に適した作品で、それは聞きやすさだったり、ストーリーの追いやすさであったり、そして春樹さんの語りであったり。

 

村上春樹さん、ちょっと出だしが早口で聞きとりにくいし、噛み噛みだし、むせるし、水飲みTime多い(ご年齢もあるのだと思うけれど)し、「どうなのかな」と思っていたが、なんとこれが途中から心地よく思え、低く渋いボイスが妙にハマってきた。短編ってどうしても忘れがちになるが、これは村上さんの語りと共に絶対に忘れないだろう。ほぼ全てを今でも鮮明に覚えている。

 

友情出演として、ギタリストの村治佳織さんと俳優の小澤征悦さんが登場した。特に期待はしていなかったのだけど、なんのその!村治さんの素晴らしいギターの音色。ビートルズの『yesterday』と『Michelle』は優しく味のある音色にうっとりした。クラシックギターっていいよなぁ。

 

また、小澤さんは未映子さんの『ヘヴン』から一部、春樹さんの『風の歌を聴け』から一部抜粋して朗読。「こんなにも良い声だったっけ」と感心するほどで、朗読にもってこいの人だと思った。俳優なだけあって、登場人物の会話がもうなりきり。目を閉じていたらその壇上で演劇が披露されていると感じるほど。

 

読む人によっても受け取る小説が全く違うものに感じた。実際『ヘヴン』も『風の歌を聴け』も読んだことがありぼんやりと記憶にあったけど、全く別のものになる感じ。おそらく自分が読んだときは文字を追っているだけだし、まああっても自分の声で変換されている。どこで区切るかとか強調するかなども含めて。

 

最後、SNSに載せても良いとのことで4人の撮影タイムが終わり幕が降りたあと、ロバート・キャンベルさんが舞台の端っこに登場して締めの挨拶をされた。「朗読というものは決して本を読んだということにはならないけれど、この時この場所で誰も読んだことがない作品を生で聞くということは、深いところで繋がっているしとても大事なものを皆さんの心に残したと思う」というようなことを話していた。キャンベルさんの優しい日本語のチョイスにセンスを感じ、込められた力強いメッセージにジーンときて、最後はとても胸がいっぱいになり席を立ったのだった。

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『オッペンハイマー』カイ・バード マーティン・J・シャーウィン|愛国心が強すぎた彼は何と闘ったのか

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オッペンハイマー』[上]異才[中]原爆[下]贖罪   カイ・バード,マーティン・J・シャーウィン 山崎詩郎/監訳 河邉俊彦/訳 ★★

早川書房[ハヤカワ文庫NF] 2024.03.02読了

 

年広島旅行をした。広島を訪れるのは初めてで、観光名所を中心に見どころを押さえたが、何よりも原爆ドーム原爆資料館は印象的だった。辛い気持ちになったが、日本人として見てよかったと心から思う。

 

爆が投下されたのは広島と長崎のみ。日本は唯一の被爆国である。原爆を開発したのが「原爆の父」と呼ばれるロバート・オッペンハイマーだ。日本人なら嫌悪感を抱く人が多いだろう。ましてや、当時原爆のせいで亡くなった人、被爆した人、親族や大事な人を奪われた人は絶対に許せないはずだ。

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原爆ドーム 2023.07.16撮影 

 

かしそれは原爆を作った人や指揮をした当時の米国大統領にというよりも、それ以上に「戦争」というものに対する怒りとやるせなさなのだと思う。それから「核兵器」に対する恐怖。また、自分が当たり前のように日本人である前提で考えているが、他国の人間だったらどう思うだろう。外国文学を多く読むようになってから、よくこうしたことを考えるようになった。

 

本では放映出来ないだろうとされていたヒット映画、多くの賞にもノミネートされている『オッペンハイマー』は、ついに今月末から日本でも公開されることになった。この作品はその原作伝記で2006年にピュリッツァー賞を受賞している。

 

んなことであれ世界で名を馳せた人物は、多くの場合生まれや育ち方に特異性がある。オッペンハイマーもその例に漏れない。幼少期から天才ゆえの苦悩と葛藤がいくつもあった。コルシカ島の徒歩旅行の夜、懐中電灯の下でマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』を読んだことは読書人生最高の経験であったと後に話している。鬱病ブラックホールから抜け出せたのは、精神科医ではなく一冊の本であったのだ。文学はやはり素晴らしい。

 

スアラモスの科学者たちの間には「オッペンハイマーに任せれば、正しいことができる」という共通の感覚があった。(中巻230頁)「マンハッタン計画」の指揮を任された彼には、天才物理学者の範疇を超えて人間としてのカリスマ性があったのだ。

 

ッペンハイマーは自国アメリカを愛し過ぎていたのだと思う。愛国心がある彼にとって自国のためにできる限りのことをするのは当然ではなかろうか。もし原爆完成前にドイツが降伏せずに予定通りドイツに投下していたら、また私たちの考え方も違っていたかもしれない。しかし兵器としての非人道性は肯定されないし「誰が、何が悪いのか」という視点になるとどうしてもうろたえてしまう。

 

島と長崎への原爆投下については、中巻の中盤ほどでそんなに頁を割かれていない。私たち日本人は、この本を読む時に勝手にあの悲惨な惨禍をクライマックスというか最大の出来事と捉えてしまうが、このノンフィクションはそもオッペンハイマー自身の人生について書かれたものなのだ。

 

ッペンハイマーの陥落と苦悩は、1945年8月以降に始まる。オッペンハイマー水素爆弾を含めた新兵器は「邪悪で、侵略者のための兵器であり、恐怖の兵器」であると警告し核軍縮を呼びかける。それが水素爆弾を推し進める人々からは目の敵となる。また、ソ連スパイ疑惑からアカ狩りの被害者となる。自分が常に監視の目にさらされ、盗聴され尾行されるとは、考えただけで生きた心地がしない。彼の人生の後半はアメリ共産主義との闘いの物語であるといえよう。

 

理に向かいワシントンに向かう直前に、旧友ビクター・ワイスコップから手紙を受け取る。これがなんとも思いやりのあり、お守り、宝物となるような素晴らしいメッセージだ。

わたし、ならびにわたしと考えを同じくするすべての人が、あなたの闘っている戦はわれわれ自身の戦であると知っています。この闘いの中で一番の重荷を背負わなければならない人として、なぜか運命はあなたを指名しました。われわれの生きる目的すべてにかかわる精神と原理を、あなたほど代表できる人が、この国に他にいるでしょうか。気分が落ち込んだときは、われわれのことを思い出してください。今までどおりのあなたであること、そしてすべてが良い結果に終わることを祈っています。(下巻236頁)

 

ッペンハイマーと愛し合っていたが結婚は叶わなかったジーン・タトロックとの恋の行方も、最後は胸が痛くなった。また、娘であるトニーの心の葛藤はいかほどのものか。彼女の人生を紐解くのもまた意義があると思う。そして、オッペンハイマーの弟、フランクが1969年にサンフランシスコに建てた「エクスプロラトリウム」という科学教育博物館は世界で一番おもしろい科学館であるというし、いつか行ってみたいものだ。

 

者の一人シャーウィンは、序文でこのように買いている。1人の物理学者の発明や栄光を書いたわけではない、人生そのものを書いたのだ。

人間の公的な活動やポリシーの決定は(オッペンハイマーの場合は彼の学問も含めて)、その人の生涯にわたる個人的経験によって導かれる、という信念に基づいて調査され、書かれたきわめて個人的な伝記である。(上巻31頁)

んなにも魅力的で人を虜にする人物を私は知らない。上中下巻のとても長い旅であったが、興奮とともに充実した読書時間となった。25年をかけてこの伝記を作り上げた著者2人にも敬意を表したい。映画も絶対に観よう。

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『さびしさについて』植本一子 滝口悠生|いろんな感情を大切にしたい|滝口さんの思想がたまらんく好き、んで、植本さんのことも好きになった

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『さびしさについて』植本一子 滝口悠生 ★

筑摩書房ちくま文庫] 2024.02.23読了

 

んでいるあいだ、ずっと胸がいっぱいで、喜びと苦しさとが一緒くたになったような気持ちになった。儚いけれど心地の良い往復書簡だ。

 

口悠生さんの本だ!と嬉しくなって買った本だが、共著の植本一子さんの名前は知らなかった。植本さんは写真家である。それなのに、なんて淀みのない素直であたたかい文章を書く人なんだろうと思った。文筆業でもやっているんじゃないかなって思っていたら、やはりエッセイストでもあるようで既に何作か刊行されている。

 

口さんがフィクションを書く理由というか小説観をこんなふうに記していた。これがとてもしっくりきたのだ。

「小説でなくては書かれえなかった場面を書けたらいいな」

「劇的なシーンや事件に限らず、一見なんでもないような時間がそのひとにとってはどうしてか忘れがたいものになる、みたいな瞬間で、そういう名前のつけにくい経験に、小説という散文の形は行き着くことができて、現実に生きているひとが経験する同じような場面を忘れたり気づきそびれてしまわぬよう支えることができるのではないかと思っている」(34頁)

 

えば滝口さんの小説は何を読んでも心地よくて、私の読書生活(もはや人生の)の大事な要素になっている。小説でも滝口さんの思想や文体に溺れてひたすら「うんうん」と共感しまくりだが、特にこれは書簡という形で自身の出来事や思いを綴り、また植本さんという具体的な方に話しかけているものだから、より一層滝口さんの思考が溢れている。

 

口さんは言わずもがなだが、植本さんの文章もとても読みやすく何よりあったかい。魂が込められている。表題の「さびしさ」がより強いのは植本さんで、それをやんわりと受け止めているようなのが滝口さんかな。植本さんの文章を読むと、心配症だし自分を卑下しすぎなんじゃないかとかそんな気配がある。どこか寄り添ってあげたくなるような感じに思えるのは、彼女が旦那さんを癌で亡くした経験があるからかも。

 

びしさというのは男性よりも女性のほうがより感じやすいのかもしれない。かつてある男性に「さびしいという感情がよくわからない」と言われたことがある。人による「さびしさ」の感じ方の違いだったり、どういう状態が「さびしい」のか線引きが難しいからどうしても主観的なものになる。今この時に感じたさびしいという気持ちは辛くて悲しいものだけれど、それが時間を経てなくなっていくことにも植本さんは寂しいと書いていた。植本さんは「さびしい」という感情をとても大切にしている。喜怒哀楽という四文字の中にあるわかりやすい感情だけでなく、人が感じる感情全てを愛おしく思うこと、それが大切なんだと考えるとなんだか楽になれる気がした。

 

本さんは「ひとりじゃないとわからないことがある」「ひとりでいることの寂しさが反転して、喜びみたいなものに変わったように感じた」と書いている。それに重ねるようにして滝口さんは「本はひとりで読むもの」だし、「文章を書くこと」もひとりでないと出来ないとしている。

 

々、子供について書き留めておいたいということから、それぞれの子供を目にしながら、子育てについてのあれやこれやが思いのままに綴られる箇所が多い。2人の子供たちがいつかこの本を読んだときに、かけがえのない財産になるだろうと思う。

 

供を育てるという経験は、おそらく人が生きていくなかで重要な出来事なのだろうが、私はそれを選ばなかった。後悔しているわけではないし自分で決めた人生だけれど、なんとなくこういう本を読むと少しだけ「さびしさ」みたいなものが生まれる気がするのだ。でも、そういう感情になることもある意味ひとつの得難き感情であるのだ。

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『化学の授業をはじめます。』ボニー・ガルマス|自分が自分になるために

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『化学の授業をはじめます。』ボニー・ガルマス 鈴木美朋/訳 ★

文藝春秋 2024.02.21読了

 

章になっていて句点もついているし「なんだかタイトルがださいな〜」と思っていたけれど、全世界で600万部も売れているというこの小説。よくX(旧Twitter)で読む本の参考にさせていただいている方のレビューを見ると絶賛していたので読んでみた。

 

リザベス・ドットと一緒に、笑って泣いて怒って、本当に物語のおもしろさがギュッとつまった小説だった。読み終えると勇気を貰える、そんな(意外と)稀少な本。アメリカのテレビドラマみたいに(そんなに観たことがあるわけではないが)エリザベスをはじめ、登場人物らの大袈裟な動きというか生き生きした様子が伝わってくるようだ。

 

は1950年代のアメリカ。エリザベスはある科学研究所の女性研究者。この時代、今以上に女性が自由に発言できず何かと不都合を強いられていた。仕事でも女性は蔑まれる。そんな時にエリザベスは天才化学者キャルヴィン・エヴァンズと出会う。初めて、一人の人間として接してくれたのだ。2人は恋の化学反応を起こす。

 

分のルーツを知るために、エリザベスの娘マデリンが図書館で牧師と話をする場面がある。自分が自分になるという意味を考えさせられる。

「親戚にすごい人がいるからといって、力があったり賢かったりするわけじゃない。きみがきみになるのは親戚のおかげではないよ」

「じゃあ、どうやってわたしはわたしになるの?」

「何を選ぶか。どんなふうに生きていくかで決まる」(337頁)

 

ートの漕手である産婦人科医のメイソン博士と、先に挙げた牧師ウェイクリーがとても魅力的だ。もちろん、一人娘マッド・ゾット、ハリエットやウォルター・パインも。それに女性を目の敵にする悪役たちも良い味を出している。こういう一見脇役の人って実はとても重要で、物語を物語たらしめているのは彼らのおかげ。

 

ちゃくちゃ読みやすくて、テンポも良くて痛快で存分に楽しめる娯楽化学エンタメという感じ。ストーリー、キャラクターが際立つ。それでもただ娯楽なわけではなくて学ぶことは多くある。仕事をするということ、子どもを育てること、社会で人とどう関わっていくかということ。

そして、自分をどうやって変えていくのか。

 

ょっと長めではあるが前向きになれる良作だ。特に女性が、いや女性がというのはエリザベスに怒られてしまう。どんな人たちにすすめたくなる作品だ。