書に耽る猿たち

読んだ本の感想、本の紹介、本にまつわる話

『マスク スペイン風邪をめぐる小説集』菊池寛|マスクなしで歩ける日は来るのだろうか

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『マスク スペイン風邪をめぐる小説集』菊池寛

文春文庫 2021.1.31読了

 

よそ100年前にスペイン風邪が流行した時、菊池寛さん自身の経験を元にして短編『マスク』が生まれた。身体が弱いことを医師に指摘された菊池さんは、徹底的に予防をする。なるべく家から出ない、うがい手洗いをする、外出時にはガーゼをたくさんつめたマスクをかける。

の私たちと何ら変わらない光景だ。特に持病があると悪化すると言われる感染症だから、余計に慎重になる。あったかくなりそろそろ感染もおさまった初春の天気の良い日、野球を観にいった菊池さんが見たのは黒いマスクをつけた男性だった。男性は徹底した強者となり行く手を阻む。どうしてか、菊池さんは負けたかのよう嫌な気持ちになった。人間の心理をうまく表しており、本当に短い作品なのだがやはり上手いなぁと思う。

説で辻仁成さんが、黒マスクをした中国人をフランス見た時に、恐ろしい視覚的印象を持ったそうだ。「黒マスク」に対して。思えばこの新型コロナウィルスも中国から始まったし黒マスクもおそらく中国人が最初に付けたのではないか。中国が色々な意味で全ての先端を担っていると言っても過言ではない。

なみに、文庫本の帯を外すとマスクをつけていない菊池さんのイラストが。時代に便乗して刊行した本だけど、なかなか上手く作っているよなぁ。イラストでさえ、マスクをしていると表情がなくなり少し怒っているように見える。やはりマスクは人の表情を隠ぺいする。

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にも感染や死をテーマにした短編が8つ収録されている。どれも読みやすい。句読点の位置が菊池さん独特であることも久しぶりに読んで思い出した。『身投げ救助業』という老婆の話が印象に残った。自殺を助けたのに相手から感謝をされない老婆は、自らが自殺をしようとした時に他人に助けられてしまい、その気持ちがわかったという話だ。

貫して言えるのが、菊池さんが描くラストの秀逸さだ。全て終わり方が唸るほど上手いのだ。きっと落語やコントにも才能を発揮しただろう。

て、もちろん私も、今日もマスクと除菌スプレーは欠かせない。私は黒マスクを持っていない。だいたい、白もしくは薄めの色を好んで着ける。

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『シーラという子 虐待されたある少女の物語』トリイ・ヘイデン|人が人に与えられる素晴らしいものを胸に

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『シーラという子 虐待されたある少女の物語』トリイ・ヘイデン 入江真佐子/訳 ★★

ハヤカワ文庫 2021.1.31読了

 

版ということで書店に並んでいたが、過去にベストセラーになったノンフィクションだ。ネットで調べてみると、昔刊行された本のジャケットは確かに記憶にある。いま読み終えて、これはこの先ずっと残さなくてはいけない作品だと強く思った。

者のトリイ・ヘンデンさんが「くず学級」(色々な障害を持つ子を分類するが、その分類に漏れた行き場のない子のクラス)で実際に教えた子供のうち、シーラという少女と過ごした約7ヶ月の記録である。作中でシーラが体験したことは、同じ女性として胸が痛むし目を覆いたくなるほどだ。

6歳であるシーラは、3歳の男の子を焼き殺そうとした事件で、精神科病棟に行くよう判決が下りた。しかし小児科の空きがないため、一時的にトリイが預かることになる。6歳の子供がこんな事件を起こすなど信じがたい。普通なら関わりあいたくないはずなのにトリイは受け入れる。

シーラは頭をかき、考えにふけるようにわたしを見た。

「あんたも頭、おかしいの?」

わたしは笑ってしまった。「そうじゃないといいけど」

「なんでこんなことしてるの?」

「なんのこと?ここで働いていること?それはわたしが子どもたちが大好きで、教えることが楽しいからよ」

「なんで頭のおかしい子と一緒にいるの?」

「好きだからよ。頭がおかしいのは悪いことじゃないわ。ちょっと人とちがうっていうだけ。それだけのことよ」

シーラはにこりともせずに頭を振り、立ち上がった。「あんたもやっぱり頭がおかしいんだね」(108頁)

れは、シーラとトリイとの最初の掛け合いで印象に残ったシーンだ。なかなか喋らず心を開かないシーラに対してトリイは少しずつ歩み寄る。トリイは、何人かのうちの1人の子どもでなく、1人の人間として全身全霊を持って接する。まずそのことに感動したし、普通なら虐待する親に対して非難するのに、ある意味被害者であるとしわかり合おうとする。シーラはトリイと出会うことができ本当に幸せだと思う。

育の現場だけでなく、誰もが意識しておかなくてはいけない大切なことがある。私たち人間は自分の価値観で物事を決めつけてしまうことがある。私もそういう時があり、いつも反省だらけだ。とても大切なところなのでもう一箇所引用する。

この子は何を考えているのだろう、とわたしは思った。そして悲しいことにこう悟ったのだった。わたしたちが自分以外の人間がどんなふうであるかをほんとうに理解することは決してないのだ、ということを。そして人間はそれぞれちがうのに、浅はかにも自分は何でも知っていると思いこみ、その真実を受け入れることができないということも。(254頁)

さい頃から多分3回は読んだ『星の王子さま』が作中に登場する。童話のようで簡単に読めるのに、とても大事なものを教えてくれ、少し怖い物語だ。子供のときは何が言いたいのかわからない話で、実は大人が読むものなんだと2回めに読んだときに感じた記憶がある。6歳のシーラは、これを一生のバイブルとし、トリイとの思い出とともに大切にするのだろう。

は、別れが必ず来るのがわかっているなら、深入りしないほうがいいと思っていた。さよならが辛くなるから。決して小さい頃からそうだったわけではなく、これは大人になるにつれ、勝手にそのように思うようになったのだ。

かし、この本を読んで考えが変わった。どんな時でも、心を込めすぎることはない、愛しすぎることはない。例え短い期間であっても、相手と深くわかり合うことが大事なのだと。トリイは、いくら別れの時が辛くても「人が人に与えられるもので思い出ほど素晴らしいものはない」と信じている。別れは辛いものだけど時間が解決するし、それ以上に大切なものを人間の心に残すのだと。

リイさんは、この本を刊行した後も何冊か本を出されているようで早くも読みたくなる。シーラがこの後どうなったのかも気になる。それにしてもこの本が最初に刊行されたのが40年前、児童虐待は今だに全世界で後を経たないことが悲しい。たくさんの人に読んでもらいたい作品だ。
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『推し、燃ゆ』宇佐見りん|若い才能花開け|本を自分で選ぶ楽しさ

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『推し、燃ゆ』宇佐見りん

河出書房新社 2021.1.29読了

 

1月20日芥川賞受賞作が発表されてからしばらくは書店から姿を消していた。ノミネート時から有力候補となっていた宇佐見りんさんの『推し、燃ゆ』である。宇佐見さんについては、デビュー作『かか』を書店でパラパラ見たときに、なんだか人とは違う文章を書く子だなと思っていた。

女の本をいつかは読みたいという軽い気持ちだったのだが、早くも読んだ。いつもなら受賞半年くらい経ってから気になれば読む感じの芥川賞直木賞だが、ネットニュースで、平野啓一郎さんや島田雅彦さんが推していたから、これはすぐにでも読むしかないと。

だからこそ、書き得た小説だ。10年前なら生まれなかったし、10年後ならおそらく生まれ得ないだろう作品。「推し」という言葉すら昔はなかった。「推しメン」という言葉が流行り出して定着したのは、AKB48が世に出てからだろうか。「誰推し?」なんて言葉を口にするようになったのはいつからだろう。

ずタイトルがいい。「推し」は今風なのに「燃ゆ」は古典のようで、対比が見事だ。主人公あかりは、あるアイドルグループに所属する上野真幸(まさき)を推している。彼の動きの全てに「推しがテレビに出た」など、名前でなく「推し」という言葉で表現している。推しが背骨であると言うように、推しイコール自分の身体の根幹であるあかり。

女が成長する過程で通り抜ける登竜門と言ってもいいジャニーズや、ビジュアル系バンドに私も一時期ハマっていた。だから、主人公あかりの気持ちや行動はよくわかる。もう、その人が全てになってしまう、一方通行のファン心理。ファン同士でわいわいしているだけで楽しい。でも、あかりは少し違う。

かれた内容が現代を反映しているから話題になっている。推し、SNSTwitter、ブログ、YouTube、そんな言葉やネット用語が飛び交う。しかし、彼女が書く文体は弾けそうなほど若々しく熱がこもっていて、この才能もまた尊い。現役大学生である彼女が描く、ある高校生の生きる形。これも21歳の宇佐見さんだから書けたもの。

れでも、私は推しにハマる30代、40代のオタクの姿を読んでみたい。もっともっとエグイ、奥が深いモノが渦巻いていると思うから。若いあかりにはないものを良くも悪くも読者としては欲してしまう。

れにしても、芥川賞直木賞本屋大賞をはじめとした有名な賞を取った瞬間、多くの人がその作品に群がるよなぁ。紙の本がなくなるかも、という危機がまるで嘘のように。本当は、自分で本を選ぶことが楽しいと伝えたい。みんなが好きな本、話題になっている本、有名な本だけが全てじゃない。例え話題作でなくても、自分だけがピンとくる本が絶対にある。それを見つけた時の喜びを感じて欲しい。

まりにも芥川賞を強調した帯で、イラストレーター・ダイスケリチャードさんのジャケットの絵が埋もれてしまっているから、もう一度。

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リチャードさんのイラスト、色んなところで見かける。彼もまだ若い。若さはそれだけでエネルギーに満ち満ちている。

『ポケットにライ麦を』アガサ・クリスティー|物語として完璧|次に読む本の選び方

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『ポケットにライ麦を』アガサ・クリスティー 山本やよい/訳 ★

ハヤカワ文庫 2021.1.28読了

 

に読む本はみんなどうやって選ぶのだろう?本がないと生きにくい私は、未読の本をだいたい数十冊ストックしておきそこから選ぶのだけど、毎日のように迷いに迷う。この迷いの時間を1週間合計したら1冊読めるんじゃないかと思うほど。迷う時間はある意味幸せな時間とも言えるが…。

った瞬間読みたくてもしばらくすると読む気が失せたり、気分が乗らないことはよくある。ひとまず買っておくという行為も本好きあるあるだと思う。選んでいて迷いすぎると何が読みたいのかわからなくなってしまい、あの手にするか!というのがクリスティー作品。まぁ、ハズレがないんですよね。ミステリから離れたい、という気分でない時はたいてい選ぶ。

して今回は記念すべき初読みミス・マープルシリーズ!ポアロばかり読み漁っていたけれどずっと気にはなっていた。新訳の『ポケットにライ麦を』に挑戦。マープルのキャラクターは、ポアロシリーズ『アクロイド殺し』に登場するシェパード医師の姉キャロラインから生まれた。ピーチクパーチクと鋭い推理を披露していたなかなかおもしろいキャラクター。

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ザー・グースの童謡になぞらえた殺人は、ミステリ界ではお決まりというか定番の仕掛けである。マザー・グースは日本人にはそんなに馴染みがないと思うのだが、この作品では「六ペンスの唄」という童謡がモチーフになっている。

かなかミス・マープルが出てこないから、ニール警部がこのまま謎解きをするのかと思ってしまった。絶妙なタイミングで登場するマープルだが、予想していたようなうるさ型のお婆さんではなかったのが驚きだ。編み物好きで気品があり、チャーミングなのに聡明な女性、すぐに好きになった。しかも、作品の中では脇役っぽいのに主役な感じが好きだなぁ。

回読んだクリスティーさんの作品は『スタイルズ荘の怪事件』というデビュー作だったからだろうか?この全盛期の本作はやはり腕が上がっている。優れた構成、無駄のない文章、巧みなストーリー展開。ミステリーとしてももちろんだが物語として完璧な仕上がりだと思う。もしかしたら今まで読んだクリスティー作品では1番好きかもしれない。

イトルを見るだけでライ麦パンが食べたくなる。私はハードなパンが大好きなので、ライ麦パンには目がない。噛み締めるたびに美味しさと香りが広がるパンの世界。本も噛み締めて読むと味わい深い。「珈琲とデザート」や「珈琲とパン」の組み合わせでの読書はサイコー!それにしても、昨夜悩んで選んだこの作品、ハズレがないどころか大当たりだった。

『こちらあみ子』今村夏子|相手の気持ちを考えることの大切さ

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『こちらあみ子』今村夏子

ちくま文庫 2021.1.27読了

 

が通っていた小学校では「特別支援学級」なるものがあった。普通のクラスに所属はしているが、授業だけはみんなと違う別の教室で受ける。知的障害または身体障害があり、支援を受けないと生活ができない子供たち。私のクラスにも1人そんな男の子A君がいた。明るくて優しく素直でいい子だったから、クラスにも馴染んでいた。ただ、みんなと同じように流行りの話をしたり放課後一緒に遊ぶことは出来なかった。

のA君といつも一緒に登下校しているB君も同じクラス。勉強もスポーツもできる優等生で優しいB君は、先生からも生徒からも好かれていた。A君の家族でも兄弟でもないB君が送り迎えをしていたのは、家が近いという理由だけではないだろう。放課後の遊びにB君を誘うと、いつも「A君と帰るから」と断られるか、一度A君を送り届けてから戻ってくるようなことを繰り返していた。

の『こちらあみ子』を読んでいる間、そんな過去をずっと思い出していた。たぶんあみ子は支援学級に入るか入らないかギリギリのところの女の子なのだ。文中にはそんな風に書かれていないし、その学校には支援学級がないようだけれど、きっとそう。

年『星の子』を読んだときにも感じた「ざわっとした感覚」がまたつきまとう。苦しいような、もどかしいような、痛々しいような気持ち。あみ子は決して悪くないし、たぶん誰も悪くない。だから、読んでいて苦しくなるのだ。あみ子も、お母さんも、お父さんも、兄も、のり君も、誰の気持ちもわかる。読む人によって様々な読み方が出来るけれど、生きていくうえで必要な「相手の気持ちを考えることの大切さ」を教えてくれる。

の文庫本には他に『ピクニック』『チズさん』という短編も収録されている。こちらも今村さんらしい、みずみずしい感性で描かれている小説だ。3作品とも読みやすいくせに心の奥を突いてくる。

学生の時に小学校の同窓会があった。仲良くなった人たちとその後数年は集まっていて、そこに冒頭で話した同級生のB君もいた。すこぶる魅力的な青年になっていた。優しくていい人という言葉だけでは追いつかないほど、その場にいるだけで周りを和やかにし、思いやりに溢れる存在。あぁ、やっぱりこんな大人になる人だったんだよなぁと改めて納得した。もう何年も会ってないけど、またみんなに会いたいなぁ。A君もどうしているかなぁ。

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『一九八四年』ジョージ・オーウェル|洗脳政治とはこのこと

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『一九八四年』ジョージ・オーウェル 高橋和久/訳 ★

ハヤカワepi文庫 2021.1.26読了

 

の小説、読んだ人も多いと思うが、読んでいなくても存在自体はほとんどの人が知っているのではないだろうか。書店に行けばハヤカワ文庫の棚に平積みされているし、紙の本や電子書籍をネットで買う人は、本のランキングで常に上位にあるのを目にする。

府によって厳しく管理された世界を描いたディストピア小説オーウェルさんがこの本を世に出したのは1949年だ。世界的にも超有名な作品だが、難しそうで今まで手を出せていなかった。SFやディストピアが苦手なためとっつき難いイメージだったのだがこれがすんなりと入れ、むしろとてもおもしろかった。自分の読書耐性が向上したのか?わからないけれど、とにもかくにも抜群のおもしろさ。

ッグ・ブラザーという独裁者が率いる党が支配する1984年のオセアニア(この作中では英米連合したエリア)。真理省で過去の歴史を改ざんする仕事に就いているウィンストンは、政府のやり方に疑問を抱いていた。美女ジュリアとオブライエンという理解者(?)が現れたことで事態は動いていくー。オーウェルさんが考えた、もしかすると未来にあり得そうな政策が興味深い。

「ニュースピーク」という政府の試み。これは言葉の無駄を無くすため、言葉を破壊していく行為で、最終的にはニュースピーク語しか話せないようにさせる。一つの単語はそれ自体に反対概念を含ませることができるから、例えば「良い」の反対を「悪い」ではなく「非良い」にする。「素晴らしい」「申し分ない」を不要の言葉として「超良い」「倍超良い」にするというのだ。

然とする。普通、時代とともに新しい言葉は、発明されたり自然発生するから増えていくもの。もちろん死語として消えゆく言葉もあるだろうけれど、圧倒的に増える言葉が多いはずだ。特に文芸を愛する人たちにとっては悲しいことこの上ない。

して二重思考という能力。これは、ふたつの相矛盾する信念を心に同時に抱きながらも、その両方を受け入れる能力のこと。意識的な虚偽を抱きながら誠実さを維持する、つまり正反対の気持ちをその状況に応じて使い分ける能力だ。これって結構難しいこと。他にもオーウェルさんが作った仮想単語とその意味がとても興味深い。

人は愛されるより理解してもらうことを望むものなのだろうか。(390頁)

んだかとても突き刺さる文章だ。結局ウィンストンが選んだ、というか求めていたのは「理解されること」だったのかもしれない。自由に生きるために。広義の意味ではもちろん、愛されることも理解されることの一つだけれど。

界が独裁洗脳政権になり、人類もそれを受け入れてしまったらこんな風になるのだろうか。恐ろしい世界だ。これを読んで何とも思わない思考の人がいたとしたら、それも恐いかもしれない。ところで、ウィンストンが1984年だろうと話しているだけで正確な時代は定かではない。年代すら洗脳されているかもしれない。いつ、なんどき、どこの国でこうなったとしてもおかしくない。

人に読みやすい小説ではないのだが、設定が独創的で、素晴らしくよくできた大作だ。どうしたらこんな設定を思いつけるんだろう。私はどちらかというと文体やその作品が持つ空気、心地よさ、はたまたストーリーが優れていると、好きだとかおもしろいと感じるのだが、この小説で感じたおもしろさは少し違う。多くの方に影響を及ぼしたのがよくわかる。ずっと忘れないだろうし、そして再読したいとも思えた。

の本がまたすごいのは、トマス・ピンチョン氏が解説を書いているところだ。彼が解説を書くことなんてあるのか?早川書房の担当者が依頼したのか?ピンチョン作品は新潮社から刊行されているのではなかったか?など疑問だらけだが、、とりあえず本文を読み終えてもなお解説を楽しみにできる幸せ。もちろん、先読みなんて手荒なことはせずに。予想通りの解説だった。なんというか、数頁読んだだけでも知能レベルの高さを感じる。

はまだ読むつもりはなかったのだけど、最近購入した別の本を読む前に『一九八四年』を読んでからのほうが良さそうだったので急いで手に入れた。少しでも楽しむために努力は惜しみたくない。何を読もうとしているかは、そんなに日をあけずにまた紹介するつもりだ。あと『動物農場』も近いうちに読む!

『あゝ、荒野』寺山修司/ボクシングと青春と新宿歌舞伎町

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あゝ、荒野寺山修司

角川文庫 2021.1.24読了

 

山修司さんは類稀なる才能を持ち、演劇・映画・短編・詩・エッセイなど幅広く活動された方である。有名なのは『家出のすすめ』や『書を捨てよ、町へ出よう』だろうか。唯一の長編小説がこの『あゝ、荒野』である。初めて読むのが唯一の長編なんて、もし気に入ってしまったらどうしよう。次に読む楽しみがなくなる…。

初に、主な登場人物紹介のようなものがあるのだが、これにまず目が飛び出る。普通は「こんな名前の人が出るのね」とさらりと目を通すだけで本文に進むのだが(どちらかというと本文を読んでいるときに見返すもの)、思わず見入ってしまう。なんと紹介文に疑問符がある。よく見ると「主な登場人物」ではなく「『あゝ、荒野』のための広告」とある。

舞伎町を舞台にした青春群像劇だ。昭和のうらさびれた新宿歌舞伎町を荒野とみなしている。そしてまた若者たちの心を吹き荒ぶものもまた荒野だ。ボクシングジムに通うバリカン(二木建二)と新次の2人の若者がメインで、他にもバリカンの父建夫、同性愛者兼性的不能者宮木、明るく健康的な女店員芳子など年齢は様々なのだが、私には何故か青春がテーマのように思えた。

曲のような、シナリオのような、詩のような、とてつもなくリズミカルでまるで音楽を聴いているかのような読書体験だった。言葉の選び方や表現方法が独特で、寺山さんがもし長く物書きを続けられていれば、名作がもっと生まれただろうにと残念に思う。

リカンは本をよく読む。作中にカーソン・マッカラーズさんの『心は孤独な狩人』が出てきたのには驚いた。去年読んだばかりだし、寺山さんも読んでいたんだなぁと思うとなんだか感慨深い。狩人に出てくるのは、吃り(どもり)ではなく、唖(おし)ではあるが。

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クシング、競馬、猛々しい性などをテーマにして熱く描写されているため、男性のほうがこの小説に感情移入しやすいと思う。特にバリカンや健二と同世代が読んだらきっと突き刺さるはず。

れにしても、この角川文庫の表紙モデルの女性、似ていないのにこの髪形を見るだけで一色紗英さんが思い浮かぶ。そうなると連想するのは、ポカリスエットのCM、そして織田哲郎さんの『いつまでも変わらぬ愛を』だよな~。

『コレクションズ』ジョナサン・フランゼン/ある家族のありのままを曝け出す

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『コレクションズ』上下 ジョナサン・フランゼン 黒原敏行/訳

ハヤカワepi文庫 2021.1.23読了

 

アメリカにおける国民的作家の1人、ジョナサン・フランゼンさんについに手を伸ばしてしまった。『ピュリティ』や『フリーダム』が気になっていたのだが、分厚い単行本しかまだ日本にはなく、文庫で手に入るのは本作だけだ。またまた名作揃いのハヤカワepi文庫、そして本作は全米図書賞受賞作だ。ちなみに、この『コレクションズ』は「収集」ではなくて「修正」の意味。「collections」ではなく「corrections」、lとrの違い。

メリカのどこにでもありそうな家庭の日常を描いたストーリー。アルフレッドとイーニッドの老夫婦は2人暮らし。最近のアルフレッドの病状が思わしくないことが妻イーニッドには気がかり。2人には3人の子供がいる。銀行に勤める長男のゲイリーはいつも妻と喧嘩ばかり、子供は3人。次男チップは、女性問題から大学講師を辞めさせられ広告会社に勤めている。末っ子の妹デニースは一流レストランでシェフをしているバツイチの独身。

ルフレッドの身体を心配するイーニッドは、次のクリスマスはみんなで過ごそうと、子供たちにしつこく提案をする。ゲイリーの妻キャロラインが嫌がるほど。姑問題がゲイリー夫妻の喧嘩の要因のひとつ。他の人物にもたわいもない喧嘩や出来事が肉付けされ、シニカルかつユーモアある日常が映し出される。

通のありきたりの家族の話なのに、重厚な作品に仕上がっている。こういう作品を書ける日本人はあまりいないよなぁ。情景描写と登場人物の過去の描き方がこれでもかというほど細かく、文学的でありながらも時おりパンチが効いている。アメリカ人独特のウィットにも富んでいる。  

代を語りながらもなんの前触れもなく過去のある場面に移る。それが、文章で1行もあけずに唐突に現れるのに、ちゃんと読者も判断できてその過去にワープできる。これって結構すごいことだと思う。訳者の黒原さんの手腕もあるだろう。

下巻でまぁまぁのボリュームだ。長さが極端に違う7つの章があり、それぞれ独立したようなストーリーだが連作短編集のような体ではない。実は読んでいて、すごく好みのシーンもあれば、小難しくて投げ出したくなりそうなシーンもあった。小説なのに、隠し事がないありのままの家族が浮き彫りになり読み応えがある。恥ずかしげもなく曝け出された人間の性。普通なら隠すだろう場面を、惜しげもなく放出していて読んでいて潔い。

っくり読んで充実した読書だったのだけど、なんだか疲れた。お腹いっぱい。それでも最後は迂闊にも少しホロリとなる。あぁ、やっぱりジョナサン・フランゼンさんはすごい作家さんだ。

『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』河野啓/ひとりの人間としての栗城劇場

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『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』河野啓

集英社 2021.1.20読了

 

3年前に、ある日本人登山家がエベレストで亡くなった。そのニュースはよく憶えている。なぜなら、その登山家は指を9本失くしていたから。登山中に亡くなったことよりも、指を9本切断しているにも関わらずどうやって山に登ったのか?生活することすら困難なのに、山に登るとはどういうことか?と思った。その登山家の名前は栗城史多(くりきのぶかず)、8回目のエベレスト挑戦時に滑落により死亡した。

年の開高健ノンフィクション賞受賞作ということでこの本の存在を知った。あ、あの登山家の話だ!と興味を持つ。普段そんなにテレビを観ないほうなのだが、何度か栗城さんの特集が放映されていたのは知っていた。登山中の動画を自ら撮りネットで公開したことでも話題になった方だ。山を舞台にしたエンターテイナー。

イトルにある「デス・ゾーン」とは、酸素が地上の三分の一しかない「死の領域」を表す登山用語だ。標高8,000mを超えると酸素ボンベなしには人間は死にいたる。何故、栗城さんはデス・ゾーンに行きたかったのか。何が彼を駆り立てたのか。彼の35歳という短い生涯をドラマチックに描いたノンフィクションで、とてもおもしろく読めた。

城さんは何をするにも恐れ知らず、勇気がある、夢を持ちつづける、そしてしつこい(いい意味で)。知人からの言葉「向き不向きよりも前向き」は、身を引き締める思いになる。会社で「私はこの仕事に向いてない」といつもぶつくさ言う人がいる。確かに向き不向きはあるかもしれないが、「前向き」や「やる気」に勝るものはないと思った。

者である河野さんのすごいところは、栗城さんを英雄扱いしないこと、素晴らしい人間だと書いていないところだ。むしろ、目に余る態度を批判していることのほうが多い。おいおい、ここまで話して大丈夫なのか?と思ってしまうほど。正直、読んでいる途中までは、栗城さんはただの目立ちたがり屋の無謀な男性というイメージで、違和感と言うかしっくりこない想いがくすぶっていた。

も、これは「登山家栗城史多」を著したものではなく「ひとりの人間としての栗城史多」の物語なのだ。登山というイメージを覆したこと、それは登山に限らず凝り固まったイメージを払拭するために大事なことだと思う。彼はたまたま登山家だったというだけで、どんな仕事をしていても、何をしていたとしても必ず人を熱くさせる夢を持った漢だったのだ。最後まで読むと、やはり山に登ることしかできなかったのかなぁとも思えてしまうが…。

後のエベレスト登頂ルートに選んだのは、南西側(ネパール側)ルート。これは無謀な挑戦らしい。あくまでも著者の想像ではあるのだが、南西側を選んだのは、夢枕獏さん原作『神々の山嶺(いただき)』からではないかと言う。ちょうど映画にもなった頃。南西壁を冬期単独無酸素で登山した方を描いたストーリーだそうだ。夢枕さんの作品は『陰陽師』しか読んだことがない。この小説に俄然興味を持った。

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『鏡子の家』三島由紀夫/鏡を通して自己をみつめる

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鏡子の家三島由紀夫

新潮文庫 2021.1.18読了

 

島由紀夫さんの『鏡子の家』を再読した。以前読んだのは10年以上前で、主な登場人物と全体の雰囲気をなんとなく憶えている程度だった。三島作品の中ではあまり評判が良くないと言われているが、私としてはわりあい好きな小説と感じた記憶がある。

うして久しぶりに読むと、鏡子の家に集まる4人の男性が三島由紀夫さんの憧れの対象となっているように見える。貿易会社有望社員の清一郎、俳優である美貌の収(おさむ)、日本画家の夏雄、大学生でボクシングに励む峻吉。三島さんは34歳の時にこれを書いたようだが、彼のその後の生き方はこの当時から決まっていたんだなと思わせる。 

姿端麗な収は、裸体を見た光子(同じく鏡子の家に集まる女友達)から「痩せっぽっち」と言われる。収は、身体中を顔にしてしまおうと、身体に筋肉の鎧をつけようと思った。顔は鏡でないと見られないが、筋肉は自分でじっくりと見ることができるから。確かにそうだ、顔や背中以外の筋肉は自分の目で見られる。鏡を通さずに。

子の家に集う4人の若者の生き様、思想が繰り広げられるが、1つの小説の中に取り入れるにはあまりにも登場人物が多いように思う。鏡子を含めた5人以外にも、枝分かれして多くの人物が現れ、彼らの背景も書かれ少しまとまりがないように感じてしまうのだ。もしかすると、これが他の作品と比べて少し劣ると思われる原因かもしれない。鏡子の家というおもちゃ箱に、何でもかんでも詰め込み過ぎた感がある。

子の家に象徴される「鏡」を通して、そこから映る自己を見つめ直す若者たちを三島さんは描きたかったのかもしれない。人は決して自分が思っている姿ではなく、第三者の目またはフィルター越しにしか本来の自分は見えないのではないか。そしてまた、三島さんもこの作品を通して自己を投影していたのかもしれない。

読んだときの研ぎ澄まされた感覚が今回は感じられなかった。10年の間に私も多くの三島作品を読んだからか、もしくは彼の生き方や思想を知ったことで感じ方が変わってしまったのかもしれない。

子には8歳になる娘の真砂子がいる。彼女の視点から物語を見てみたいと思う。どのように仕組んで最後あのような結末になったのかとても気になる。もう、読書が想像をふくらませるしかない。

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