書に耽る猿たち

読んだ本の感想、本の紹介、本にまつわる話

『夢も見ずに眠った。』絲山秋子|夫婦の関係とは。しみじみと余韻が残る作品。

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『夢も見ずに眠った。』絲山秋子

河出書房新社河出文庫] 2022.11.24読了

 

本の至る所を旅しているような、いや再び訪れて懐かしむような気分になったといったほうがいいだろうか。岡山県・倉敷、岩手県・盛岡、島根県・松島、北海道・札幌は旅で訪れたことがあるし、東京都・青梅市は以前仕事で一年ほど通った地、そして神奈川県・横浜市は今もお世話になっている街だ。沙和子の実家である埼玉県・熊谷こそ訪れたことはないが、この作品に出てくる多くの土地には馴染みがあり、他人ごととは思えなかった。

ういう夫婦は実はたくさんいるんじゃないかと思う。結婚をしていても住む場所、生活が別々。学生の頃からの付き合いの沙和子と高之は結婚生活を始めるが、早々に沙和子の札幌への単身赴任が決まる。職を見つけたばかりの高之は一緒に札幌には行けず、沙和子の実家で義父母と暮らす(これはちょっと歪だけれど)。夫婦はたまにしか会えず、いつしかお互いが夫婦でいる意味をなくしている気持ちに気づいていく。

れでも2人の関係性は、年を追うごとに、いやお互いの人生経験を重ねたからこそ、違う意味での信頼が生まれていく。数日前に、デーブ・スペクターさんが「離婚の原因は結婚」とツイートしたものが巡り巡って私のタイムラインにも流れてきた。まぁ、それを言ったら始まらないけれど、確かに結婚しなければ離婚しないわけだし、でも離婚して気付くものもあったりするんだろうなと妙に考えさせられた。

の中の想いには句点がない。地の文には普通に句点があるのに、心の声は文字で一文が終わる。会話文がカッコでおさまっているから、他の文は地の文でもなんでもある意味著者の心の声であることに変わりはないのに。そして章の最後の段落では「沙和子が」「高之は」ではなく「彼は〇〇した」というように変化する。このように絲山さん独自の文体が存在感を放つ。そしてタイトルには句点がついていることに気付く。

山秋子さんの作品は1作だけしか読んだことがなかった。たしか『海の仙人』だったと思うのだが、実はあんまり覚えてない。今回読んでなんだかとてもしっくりくるというか、しみじみと余韻が残る良い作品だと感じた。取り止めもない人生の流れに身を任せながらも、人とわかりあうことの軌跡を書いた作品だった。

『マーダー・ミステリ・ブッククラブ』C・A・ラーマー|クリスティ愛に溢れたライトなコージーもの

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『マーダー・ミステリ・ブッククラブ』C・A・ラーマー 高橋恭美子/訳

東京創元社創元推理文庫] 2022.11.23読了

 

のタイトルと帯の文句を見ただけでワクワク感が止まらない。ミステリ好きかつクリスティ好きなんて!私は読書会というものに参加したことがない。読みたい本ってその時によって違うし自分のタイミングみたいなものがあるから(今はミステリが読みたい、恋愛系がいい、歴史小説を読みたい、軽いエッセイしか無理、のような)、課題図書を読むことにちょっと抵抗がある。でも、この作品と訳者による解説を読んで一度は参加してみたいと思った。

む前は、クリスティやP・D・ジェイムズ作品のような濃密なミステリかと思っていたが、ライトなコージーものでとても読みやすかった。今の気分としては、その軽めのミステリを欲してたんだろうなぁ。同じ創元推理文庫のホリー・ジャクソン著『自由研究には向かない殺人』シリーズよりも軽い。ピップは高校生で、この作品の姉妹は26歳と30歳だからだいぶ大人なのだけど。

ステリ、そしてクリスティ好きなアリシアとリネットの姉妹は、読書会を立ち上げる。集まった面々は個性的なメンバー。順調に楽しく始まった読書会だったが、2回目の読書会でメンバーの1人、主婦のバーバラが無断欠席し行方不明になってしまうのだ。

もそもミステリ好きなメンバーたちがこのまま放っておくはずがない。ミス・マープルのおせっかいさながらに、口を挟みのめり込んでいく。2回顔を合わせただけでこんなに皆が仲良くなるはずないよなとか、今どきこんなにアナログな作戦でいかないよな、とか?マークも多々あったけれど、なかなかどうしてテンポ良く楽しく読めた。

分自身そんなにミステリに傾倒しているとは思っていないが(本のジャンルとして普通に好き)、何かの事件がテレビで報道されたり、ちょっとした不穏な気配を感じると、クリスティー作品に出てくる毒薬・身代わりを疑ったり、何らかの過去に繋がりはないかを考え、突飛な想像を変に巡らせてしまう。このメンバーたちはその度が越している。

者のクリスティー愛が溢れ出ている作品だ。もしかしたら、全ての作品を読み尽くしている人ならこの作品のカラクリはわかってしまうかも。クリスティー作品はまだ未読のものがたくさんあるけれど、次に読みたいなと思ったのが『白昼の悪魔』と『クリスティー自伝』だ。『白昼の悪魔』はマーダー・ミステリ・ブッククラブ第1回目の課題図書に選ばれている(ちなみに第2回は『スタイルズ荘の怪事件』、第3回は『オリエント急行殺人事件』)。

のマーダー・ミステリ・ブッククラブはシリーズ化されているようで、来月第二弾が刊行される。東京創元社は単行本をスルーしていきなり文庫本で刊行してくれるのはなかなか嬉しい。あとは文庫本の文字フォントをもう少し大きくしてもらえれば言うことはないのに。

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『デッドライン』千葉雅也|本気にならず何かを結論づけることもなく

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『デッドライン』千葉雅也

新潮社[新潮文庫] 2022.11.21読了

 

葉雅也さんは立命館大学の教授をされており『現代思想入門』の著者で知られる哲学者である。哲学者が書いた小説、しかも芥川賞候補にもなっていたので、かねてから気になっていた作家である。

学一年の時『言語と論理』という履修科目があった。1年間の授業でテキストに使用している本のわずか30頁ほどしか使わず、ひたすらフーコーの思想を深く掘り下げて語っていた教授が懐かしい。学生たちに厳しく、半数以上の学生が単位を落としていた。私もそれに漏れず2年生で再履修することになってしまった。この小説を読んでフーコーやらドゥルーズがでてきたので、真っ先にその教授のことを思い出した。

 

学を専攻している大学院生の「僕」が主人公である。他の人にはちゃんと名前があるのに「僕」の名前は明かされていない。友達に呼ばれるときも「○○くん」と書かれている。これは読者自身を投影させるためなのか?

士課程のデッドライン(締め切り)に追われながらも、男色のひとときを楽しみ、友人の映画を一緒に撮り、若者の日々を謳歌する。しかし決して物事に本気になっていない。何かを結論づけるのではなく、たゆたうように生きる青春が飄々と描かれていた。

ランス哲学者の思想を学びながらも荘子の故事が出てくる。目まぐるしく移り変わる場面、突然語り手が変わる違和感、文章は決して難解なわけではないのに、観念的で読み解くのが難しい小説だった。町屋良平さんの解説を読むとなお一層ちんぷんかんぷんになる。解説なのに、難解さを増す解説なのが、、まぁ町屋さんっぽいけれど。

『嫉妬/事件』アニー・エルノー|書くことで感情を解き放つ

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『嫉妬/事件』アニー・エルノー 堀茂樹・菊地よしみ/訳

早川書房[ハヤカワepi文庫] 2022.11.20読了

 

ニー・エルノーさんがノーベル文学賞を受賞された時には、すでにこの作品の文庫化が決まっていたようで、早川書房さんは先見の明があるなと感心していた。この本には『嫉妬』と『事件』の2作の中編が収められている。文学的な意味合いでは『嫉妬』のほうが優れているように思うが、強烈な存在感を放つのは『事件』のほうだ。

 

『嫉妬』

嫉妬は、人間が持つ感情の中で一番といってもいいほど醜くて嫌な感情だと思う。つい最近まで付き合っていた男性に新しい彼女ができ、一緒に住むことになったという。別れたはずなのに、嫉妬心にかられて相手の女性のことを知りたくなり生きる目的はそれだけになる。完全に別れてはいない、割り切れていないから、この嫉妬は生まれてしまうのだろう。

しかし、この作品における「嫉妬」は、私たちが考える嫉妬とは少し異なるように思う。嫉妬に駆られたら、普通はかっとなり相手の女性も男性のこともめちゃくちゃにしたくなる。何故自分でなくあの人なのかと苛まれる。それなのに、この作品で「私」は誰にも迷惑をかけずに、自分の中でちゃんと落とし前をつけるのだ。これはもはや私たちが知る恋愛における嫉妬とは別次元のものだ。エルノーさんはまたしても、書くことで嫉妬という感情を別のものにしたのだろう。

 

『事件』

作品の舞台である1963年当時のフランスでは、中絶は違法であった。学生である「私」は、望まない子を妊娠してしまい中絶を決意する。タイトルの『事件』とは、妊娠中絶のことだ。悩み苦しみ抜いた過酷な体験が赤裸々に綴られている。

これと同じことを著者のエルノーさんが体験したのだとしたら壮絶極まりない。学生寮のトイレでの流産の場面は目を背けたくなるほどで、想像したくなくても身体のある部分が痛み具合が悪くなってしまう。結局この痛みと重みは女性が背負わなくてはならないもの。

日本では合法化されているが、未だに中絶に対しては批判的な国や地域が多いという。とても難しい問題である。ひとつの命に変わりはないかもしれないが、望まない妊娠(レイプや何らかの事件で)が現実問題として存在する。

 

の『事件』は、来月から映画化される。ノーベル文学賞と映画化がタイミングよく相まって、お決まりの全面帯カバーがかけられていた。一応記念にこれも載せておこう。この作品を映像で再現出来ているとしたら観るのは苦しいけれど、考えなくてはならない問題だ。

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『みんなが手話で話した島』ノーラ・エレン・グロース|ある共同体に生まれた文化を紐解く

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『みんなが手話で話した島』ノーラ・エレン・グロース 佐野正信/訳

早川書房[ハヤカワ・ノンフィクション文庫] 2022.11.19読了

 

ミュニケーション手段のメインが「言葉を発する会話」によるものだという概念を覆す作品だった。アメリ東海岸マサチューセッツ州のリゾート地、マザーズ・ヴィンヤード島では、かつて島に住む人々みなが手話を使って話していたという。この共同体の歴史や文化を紐解き、ろう者に対する考え方をまとめたのがこのノンフィクションである。

学生の時に(今でも仲の良い友達だ)生まれつき難聴の友人がいて、その子に指文字を教えてもらった。手話ではなく、単純にアイウエオを「ア」を示す指の形、「イ」を示す指の形、といった具合に一文字づつ指の形が決められたものである。

かしこの指文字はその友達と話すためではなく、教室で友達同士で言葉を発さずに内緒話のような形で使っていた。声を出さないからうるさいと言われることもなく、他の誰かに話す内容を気づかれない。だから、内緒の話や先生の悪口などを堂々と伝えられたのだ。クラスのある程度仲の良い女子たちみんなで使っていた。

の本を読んで思い出したのがこの指文字のエピソードだ。まだ子供だったから、指文字を覚えるのに全く苦痛もなく自然に、むしろ楽しみながら理解していた。だから、ヴィンヤード島の人たちも同じようだったのだろう。なんの偏見もなくひとつのコミュニケーション手段として手話を身につける。

メリカ本土では先天性の聾者の比率は5728:1なのに対し、ヴィンヤード島では155:1だったという。この数字だけ見るとものすごい確率だ。著者のグロースさんは、まずはこの確率に目をつけて遺伝や婚姻形態に目をつけて調べていった。

の島ではきちんと手話を習った人はおらず、本能のままに覚えていったという。手話を身に付けなくてはコミュニケーションが取れない、覚えざるを得ないという共同体。だから自然とそれが当たり前になった。

かしヴィンヤード島でこれができたのは、聾者の確率がとんでもなく高かった、つまり耳の聞こえない人が多くいる社会だったからだろう。そういう状況にならないとこうした共同体になり得ないのであれば、現代社会ではなかなか難しいのかと感じた。それでも、ろう者をひとつの個性として捉えられるように社会を変え前進することは意義のあることだ。

『人間のしがらみ』サマセット・モーム|幸せは苦しみと同様に意味がないもの

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『人間のしがらみ』上下 サマセット・モーム 河合祥一郎/訳 ★★

光文社[光文社古典新訳文庫] 2022.11.18読了

 

さか年に2回も同じ小説を読むとは!どれだけこの作品が好きなんだろう。『人間の絆』という邦題で広く知られる名作であるが、今回訳者の河合祥一郎さんは、「絆」ではなく「しがらみ」とした。確かにミルドレッドとの関係性はもはや絆というよりもしがらみといえるかもしれない。「絆」も「しがらみ」も表裏一体であるからこの訳も頷ける。しかしタイトルから受ける印象はガラリと変わるから、なかなか思い切ったことをしたな~と思う。

 

品の中でフィリップの精神を不安定にし、感情を大きく揺さぶられるのは大人になってから(特にミルドレッドとの関係)であるが、寄宿学校時代の描写には痛ましくなる。全体からみるとわずかな頁数であるのに忘れ難い。子供の頃に受けたものは(特に悪いことは)生涯忘れられず一生付きまとうトラウマになる。「学校でつらい思いをしたために自己分析の癖がついた」と語るフィリップは、その後の人生で洞察力を培い生きる真理を見つけるのだ。

タイの福音書による一節「信じて祈るならば求めるものは何でも得られる」を読んだフィリップは、内反足が治るようにと、来る日も来る日も全霊で祈り続けた。それでも叶わない。それは「信仰が十分である人はいない」という一般的な法則を生み出した。聖書の文は、一つのことを言いながら別のことを意味しているものだったのだ。子供の時は、初詣でも流れ星でも、本気で願いを叶えられると私も信じていたよなぁ…。

庭教師であるミス・ウィルキンソンとのひと夏の体験、これが初恋と呼ぶのなら、甘い思い出にもならない。ウィルキンソンを魅力に感じるときもあれば、グロテスクな厚化粧だと思ったり。しかし、おそらく誰しもが通り過ぎる、初めてのキス、初めての色々な経験、これを早く済ませたいという焦燥感から彼女を選んだだけ。それでもフィリップは、男女の遊びに今まで感じたことのない喜びを見出す。

じ作品を何度も読むと、余裕が生まれるのか、1度め、2度めには気づかなかった(というか心に深く残らなかった)ところにもじっくり目を凝らせるようになる。育てのルイーザ伯母の深い愛、フランスの絵画教室で出会ったファニー・プライスの最期、美学生に多大な影響を与える酒好きのクロンショー、スペインに情熱を抱くソープ・アセルニーとその家族の寛大さ。 

人ヘイウォードが亡くなったと知った時のフィリップは人生の意味を問い続け、人生には意味などない、重要なものは何もないと気付く。

幸せという物差しで測っていたら自分の人生は惨憺たるものに思えたが、ほかの物差しで測ってもいいと気づくと、力が取り戻せるのだ。幸せなど、苦しみと同様、あまり意味がない。どちらも、ほかのさまざまな要素と同様、人生という模様を凝ったものにするだけだ。フィリップは一瞬、人生という出来事から超然と離れて立っている気がし、これまでのように、もはや人生に振り回されることはないと感じた。何が起ころうと、これから人生模様をさらに複雑にするモチーフとなるだけのことであり、終わりが近づけば、その完成を喜べばいい。それは芸術作品となり、自分だけがその存在を知り、自分の死をもって直ちに消え去るがゆえに、美しいのだ。(449頁)

この真理に気付いたあと、「フィリップは幸福だった」と締めくくられているのが何ともいえず尊い。幸せとは、目に見えない自分の心のなかのものなのだ。

 

の作品を読むのは3回めである。もちろん全て違う訳者さんだから、受ける印象は異なる。しかし、元の作品が素晴らしい故にどの訳も作品の良さを損なうことは全くない。この作品がこんなにも私たちを惹きつけるのは、主人公フィリップの人間らしさだろう。決して良いところばかりではない、むしろ、欠点のほうが目立つ。嫌なやつ、人の気持ちを踏みにじる、そして裏切られ、騙され、それでも屈しない強さがある。人間関係で感情をコントロールできず運命に翻弄されてしまう弱さもある。  

本語の「絆」という言葉は現代では肯定的な意味合いが強いが、本来は「断ち切りたいのに断つことのできない結びつき」という否定的な意味があったようだ。だから、かつて邦題を「絆」としたのも納得である。しかし時代が変わると言葉の意味も変化する。河合さんが「しがらみ」としたのも、時代に即した言葉を用い、この名作を長く世に残したいという想いが込められているのだろう。

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『本物の読書家』乗代雄介|文学観と小説蘊蓄|単行本を読む前に文庫化されてしまった

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『本物の読書家』乗代雄介

講談社 2022.11.12読了

 

書家に本物も偽物もあるのだろうか。まぁ、読書家を気取っているニセモノはいるかもしれない。そもそも「読書家」は「家」がつくのに個人の趣味が高じただけになっているけれど、他の「家」がつく「建築家」「音楽家」やらはその道のプロを指す言葉になる。

はこれらの「家(か)」の意味は異なり、「読書家」につく「家」のほうは、そのことに固執している、凝っている、性向にあるの意味である(努力家、愛妻家など)。「建築家」の「家」のほうは、そのことに専門性をもって従事している人の意味だ。日本語は難しくてやっかいだ。だからこそ趣があって美しい。

 

叔父とはどんな血縁関係だっけ、と一瞬考えてしまった。正解は祖父母の兄弟のこと。この関係の人と会うことってなかなかないよなぁ。冠婚葬祭でしか会わない人がほとんどじゃなかろうか。

人公の語り手は、大叔父を老人ホームに送り届けるという任務を任された。列車の中で出会った関西弁を喋る不思議な男性とのやり取りの中から、大叔父の過去の秘密が明らかになっていく、そんなような話。

説の形をとっているが、乗代さんの文学観を語っているような作品だった。思えば、彼の小説には必ず文学のくだりがある。実際の小説もたくさん出てきた。読んでみたいと思ったのは、この作品で肝となっているシャーウッド・アンダーソン著『黒い笑い』だが、そもそも絶版で中古でも出回っていないそうだ。ナボコフ著『ロリータ』もそろそろ再読したい。

う一作、中編として『未熟な同感者』が収められている。こちらも文学に関する考察が多く小説の引用も多い。フローベールサリンジャーナボコフカフカなど。引用だけ字体を変えて太字になっているが、ストーリーが少しわかりにくかった。まぁ、文学蘊蓄が好きな人にとってはこの上なく楽しいだろう。

代さんの最近の作品は、文体だけでなくテーマ自体も多くの人に読みやすくなっているように思う。もちろんそれは良いことなのだけど、私としてはあくが強い初期の作品のほうが好みではあるなぁ。

ほど乗代さんが知られていなかった頃の作品だから、3年経っても文庫化されず、仕方なく1年ほど前にこの単行本を買ってしばらく温めていたのだが、なんと2か月ほど前に文庫本になっていた。単行本を買ったのに読む前に文庫が刊行されるという、ガッカリ感…、半端ない。

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『歩道橋の魔術師』呉明益|現実の世界にはない「本物」がきっとある

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『歩道橋の魔術師』呉明益 天野健太郎/訳

河出書房新社河出文庫] 2022.11.11読了

 

んでいる自分がマジックに魅了されてしまったようだ。やられた!とかではなく、むしろ心地よい騙され感。そんな不思議な魔法に包まれている、ずっと読んでいたくなるような作品だった。

、街頭の大道芸人が丸く書いた円の中で、踊る人形を操っていた。どう見ても電池が入る大きさではないし、何も繋がっていない。しかし私は、斜め後ろから観客然として見つめていた男が、細い糸で人形を操る姿に気づいてしまったのだ。

の透明に近い細い糸を横切ろうとしたら、別の男性がまるで怒鳴りだすように注意をしてきた。ここで私が横切ったら人形が倒れ、大勢の観客の信頼を失うからだ。結局何もせずにその場を去ったが、この本の一作目『歩道橋の魔術師』に出てくる紙の小人を読んでこの記憶が蘇った。

が見たものはタネも仕掛けもあるマジック(大道芸かな)だった(むしろ胡散臭い)が、この本に出てくる魔術師は、おそらく「本当」のことを教えてくれている。台北の中華商場には大きな歩道橋がかかっており、そこに魔術師がいる。魔術師を軸とした10つの短編が収められ、それぞれの主人公が子供の頃を思い出しながら語られる連作短編集になっている。

ぼくらの心のなかにあるものだけが本当なんだ。(『ギラギラと太陽が照りつける道にゾウがいた』106頁)

実世界ではないところにある「本物」「本当のこと」を魔術師は子供たちに伝える。子供だからこそ伝わる何かがあって、大人は現実の中にしか「本物」がないと思うから信じようとしないのだろう。

 

明益さんの本を読むのは3冊めだが、やはりストーリーテリングに奥行きがあり、台湾への郷愁が感じられる。漂っている空気感が心地良い。今回もまたジャケットのデザインが素敵である。そして文庫に収録された訳者天野健太郎さんと東山彰良さんの解説が素晴らしかった。

の再開発のような大掛かりで人工的な陸橋ではなく、人が道路を横断するためだけに作られた一般的な歩道橋には、しみじみとした懐かしさがある。通勤通学の道のりで歩道橋を渡らざるを得ない人を除いて、日常的に歩道橋を積極的に使う人はあまりいないだろう。私も、前回歩道橋を歩いたのはいつだったっけ、と思い出せない。歩道橋に登って真ん中から遠くを見つめたくなった。

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『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』長谷敏司|ロボットと義足ダンサーの表現法、そして介護

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プロトコル・オブ・ヒューマニティ』長谷敏司

早川書房 2022.11.9読了

 

に「10年ぶりの最高傑作」なんて書かれているけど、そもそも長谷敏司さんという作家を私は知らなかった。それもそうか、早川書房でも滅多に読まないハヤカワ文庫JAに名を連ねる方のよう。早川が好きで多く読んでいるけれどJAやSFの棚はほとんど見ないからなぁ。読まず嫌いは良くない、いつか小川一水さんの作品も読みたいのだが。

の作品に登場する護堂恒明(ごどうつねあき)は、ダンサーとして素晴らしい活躍をしていたが、バイク事故で首の骨を折り右足を切断することになる。新しくカンパニーを立ち上げた谷口と組み、AI搭載の義足をつけたダンサーとしてロボットと一緒に踊る。形にとらわれず自由な表現方法で踊るコンテンポラリーダンスを突き詰めようとする。

イトルの「プロトコル・オブ・ヒューマニティ」とは「人間性の手続き」「人間性に対する通信手段」といったところだろうか。まさに、共生義足として魂を持った義足をもつ恒明が、どのようにして自らの生を表現していくかが見ものである。

かなか辛い書き出しから始まったが、更なる悲劇が恒明に襲いかかる。同じくダンサーの父親が運転する車で事故を起こし、父は首を骨折、母は亡くなってしまう。そして父はなんと認知症を患ってしまうのだ。ダンスを極めようともがきながら、父の介護をする恒明はどうなってしまうのか。

ボットとのダンスにいかに人間性を見出せるかをテーマにしている一方で、「介護とは、たぶん、人間性だと思っていたことを少しずつ諦めてゆく過程なのだ」と生身の人間である父に対しては人間性を失うかのよう。しかし父娘はダンスによって表現の高みを目指す。いつしか2人は心を通わせていく。

れを読んでいてパラリンピックの開会式を思い出した。身体になんらかの障害をもった彼らが歌い踊り、身体だけで表現する様は見る者の心を掴んだ。決して言葉は必要ないんだな、身体の動きだけで人は魂の叫びを訴えることができるんだと。

段読まない類の作品だったからかとても新鮮だった。ダンサーと介護を扱うという組み合わせが斬新だった。やはり初読みの作家というだけで少しだけ緊張感がある。視野を広げるとともに知らない作家を発掘するのも楽しい。2050年の近未来が描かれたディストピア作品であったが、そんなことはほとんど感じさせず、ヒューマンドラマ的要素が強く読みやすかった。

『白い薔薇の淵まで』中山可穂|究極の愛を突き詰める

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『白い薔薇の淵まで』中山可穂

河出書房[河出文庫] 2022.11.7読了

 

前から気になっていた中山可穂さんの作品。李琴峰さんの小説の中にも登場しており、おそらく台湾をはじめとして海外でも広く読まれているのだろう。同性愛者の恋愛を描いた作品群でよく知られている。

んな作品なのかも知っていたし予想もしていたはずなのに、読み初めてすぐ、濃密な描写に恥ずかしくなってしまった。しかし、その淫らな描写と作品の2人の主人公とく子と塁(るい)の奔放で真っ直ぐな想いから目を背けることができず、ものの2時間たらずで読み終えてしまったのだ。

性同士であれ同性同士であれ、色々な愛の形があると思う。だけど、異性よりも同性への愛の方が深く崇高に思うのは私だけであろうか。狂おしいほどの熱量が溢れている。男とか女とかそういうことは関係なく、身体が欲する極み。こんな風に突き詰めたなら本望だと思う。この作品は山本周五郎賞という名誉ある文学賞を受賞された。この内容はなかなか映像では表現できない。文学の力でしかその深く美しい愛は届けられないのだと思う。

ルハン・パムク著『無垢の博物館』を読んでも感じだが、究極の愛は永遠には続かずいつしか悲劇に転じる。死んでもいいほどの愛は、不安と隣り合わせ。ということは、安定したほどほどの幸せは、きっと究極の愛ではないんだろうなと思う。一体どちらが良いのだろう?

山さんの作品は、もう一冊『感情教育』という小説が気になっている。去年6月に書かれた河出文庫版あとがきによると、作家生活の後半戦は様々なテーマで執筆されたそうで、他のジャンルの作品も読んでみたい。

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